『木靴の樹』
L'Albero degli zoccoli
1978
「19世紀イタリア・ロンバルディア州に4軒の農家があった。彼らは小作農で収入の3分の2を地主が取っていた」
カルロ神父「ミネクを学校に行かせなさい。
パティスティ「でも学校まで 6 キロ、帰り 6 キロは長いように思えます」
神父「ミネクは若いし、足も強い」
バディスティ「ちょうど次の赤ちゃんが生まれるところです。ミネクには家のことを手伝ってもらわなくては」
神父「彼は大きくなったら、もっとお前を助けてくれる。今のところは神の摂理に任せなさい」
パティスティ「私は学校なんざ行きませんでした」
神父「それは正当な理由にはならない。それはお前さんも知っているだろう。もし神がミネクに良い心を与えたなら、それは神がミネクにもっと期待していることの表れです。少年の父親として、神の命令に従うのがお前さんの義務だ」
この映画は
(1)勉強ができる息子ミネクと両親のバディスティ一家
(2)祖父アンセルモと夫を亡くした夫人と6人の子供のルンク一家
(3)美しい一人娘マッダレーナのいるブルナ一家
(4)ケチなヴィナール一家
の4家族が暮らす長屋のような集合住宅の中を描く。
彼かが住む集合住宅は広いベランダを持つ二階建て。中庭を挟んで向かいには家畜小屋。住宅と家畜小屋を囲むように塀で囲まれている。
ここには『父・パードレ・パドローネ』の様に子供を虐待する親は居ない。1800年代末なので子供が働くのが当たり前の時代というだけだ。
4家族は昼の労働が終わると集会所に集まって過ごす。誰かが面白い話や怖い話をする。テレビもラジオもない時代の食後の団欒だ。男達は誰も酒を飲まない。いや酒を買う余裕が無いのだ。
神父「礼拝に来なかったね?」
ルンク夫人「家の仕事に追われていまして」
神父「どうだろう下の姉妹二人を教会の施設で引き取るというのは?」
それを聞いた長男は「昼も夜も働くから妹達を連れて行かないで」という。しかし一家が地主から与えられている牛が病気になり一家の経済は破綻しそうになる。
ここで泣きそうになった。夫の死、子供を抱えた暮らし、牛の病。現代だって起きかねない苦境だ。
マッダレーナを好きな青年がゆっくりと距離を近づけていく様子も微笑ましい。
結婚した二人は州都ミラノまで船で下る。この川下りの旅がのんびりしていて美しい。しかし遠くで煙が上るのが見える。ミラノにつくと軍隊がデモを行った青年達を連行している。
マッダレーナと夫は彼女の伯母がいる修道院を訪ねて赤ちゃんを里子として貰い受けて帰ってくる。ここはふんわりとした「処女懐胎」の隠喩の様に思われる。
毎日12キロ歩くミネクの木靴はついに割れてしまう。片足裸足で帰ってきたミネクを労る父バディステイは夜中に密かに地主の木を切り木靴を作る。
これがバレてバディスティ一家は農場を追い出されてしまう。
この映画に出演しているのはべルガモ県の農民達。全員素人。みんな味わい深い良い顔をしている。
素人を使ったイタリア映画というとネオリアリズモ時代のビットリオ・デシーカ、ロベルト・ロッセリーニの戦後のイタリアを描いた映画を思い出す。ネオリアリズモでは無いけどパゾリーニはイエスの生涯を描くときも全員素人俳優だった。
最近観た『ニュールンベルグ裁判』は練り上げられた演劇的セリフ、俳優の熱演による見事な映画だった。
『木靴の樹』は対照的に素朴なセリフ、素人俳優の自然な演技の映画だ。しかし家を追い出され当てのない旅に出ることを感じた子供の涙を見て切なくてたまらない。
こういうほぼドキュメンタリーに近い映画もあっても良い。3時間を共にした彼等はもはや私の隣人だ。