誰かが乗り物に乗って水上を走り,誰かが水に潜って動き,誰かが車で走っていく.それは誰でもよいのだろうか,それとも誰かでなくてはいけないのだろうか.捕鯨や戦中といった歴史的視点が現代の水辺の街に交錯してくる.物語上の大きな必然性はなく,ネタやアトラクションとして,様々な物事が動員される.企業や地名,そして数々の若い誰かまでもがそうした動員により画面の中に動き,その軌跡を残し,字や物はそこにとどまりながら残像を浮かび上がらせる.
浮かんでいるのだろうか,沈んでいるのだろうか.水中の泡は,その浮力によって上方へ向かっているらしい,過去に沈んだ物は空気の浮力を加えられることで,水上へと,水面へと浮かび上がっていく.沈んで動き回るものたちは,そこに遊びがありながらも,どこか記憶をまさぐっているような感覚がある.船中での戯れがあり,病院でのベッドシーンがあり,水中でのキスもある.こうした諸々の事象もスクリーンという水中に催されるとき,どこか時の干渉を受けているような,懐かしいような,遠い未来であるような不思議な感覚も催されてくる.
空中には花火が打ち上げられる.潜っては飛び,やはり海上を走っていくジェットスキーがある.そこに海をテーマにした歌を歌う歌手たちの声が響いてくる.着替えられるということ,そこには何か逆転のような出来事が感じられる.田中真理子(原田知世)は,通勤する.エレベーターすら鮨詰めである.まだ屋外を歩いている時,彼女は群れの中心にいるが,周囲からバブルのように浮遊してしまうように,浮いている.そして彼女はその群れの進行とは,逆に進み始める.それは水平の運動であるが,何かが脱がれ,新たに着られる時にも,重力に従って落ちるものと,人間が人間として二足で立つことで,人間に掛けられる衣服や水着がある.ウェットスーツや水着は靡かない衣服でもあり,真理子が車外からの風を感じ靡かせている頭髪とは異なる物である.
吉岡文男(織田裕二)も名乗りをあげる.こうして劇中の人物は,現実のロケ地に着地しようとするが,虚構のように浮かんでは沈み,右に動いては,左に動き,やはり地上には定着し得ないのである.