多くの語らない視線が登場する。憎むような目つき、悲しんでいるような目つき、大人の社会が気に入らない目つき、大人の言葉や行動に怯える目つき、そして大人の目つきなど、様々な目玉とつぶらな瞳が現れては消えて飽きない。野球はボールをめぐって執り行われるゲームではあるが、こうした視線が飛び交い、目がボール以上に様々に転がり合うところに感動がある。
1976年の現在を描いた映画であり、アメリカの野球史もほぼ1世紀を経ており、この年には映画にも英雄的な存在として引き合いに出されるハンク・アーロンが記録的な最後の本塁打を放った年でもあった。少年たちの野球は、それでも大人の社会が反映されている。フェアプレーがあり、試合後には勝利チームが敗北したチームを称える。その一方で、敬遠やデッドボール、フォアボールも作戦として導入され、ワンマンプレーもあり、抜きんでた投手の存在が試合を決していく。社会にありがちな場面をゲームというのは反映しており、弱さ、いじめ、人種、引っ込み思案、女性、エラーとカバーなどフィールドに表現される関係は、そのまま社会の諸関係でもある。
しかし、子どもたちの悪態がどこか気持ちがいい。また、コントロールされていない悪戯や仕草など、ついつい手を出したり、怒鳴ったりしてしつけたくもなるが、彼女ら彼ら悪童には、どこか天使的な自由が感じられる。そうした子どもの自由に対し、大人は干渉するのか、介入するのかが問われ、観賞すること、寛容となることも同時に求められている。外野のさらに外側、フィールドの外には多くの大人たちが子どもたちのゲームに手を出さずに、勝ちも負けも、上手も下手も引っくるめて、見守っている。
カリフォルニアと思われる西海岸地域としての守りも感じられる。バイクに乗り、タバコを吸い、ビールを飲み、子どもたちは非行に走っているようにも見える。しかし、それらの悪の用品を持ち込んだのがそもそも大人であって、主人公のバターメーカーであっても肌は荒れてたるみ、タバコと酒が体に染みわたっているどうしようもない反面教師でもある。繰り広げられる野球には、ボールと戯れる牧歌性があり、それはスポーツとはいえないようなゲームにもなっている。ただ競い合うだけがゲームではないことを示している。その意味で、野球も悪であり、その悪を自由に楽しく描いているところに本作の魅力がある。