長尺で、しかもあれほど登場人物が多く、一見複雑そうに見える『マグノリア』が多くの人から支持されるのは、誰でもがひとつくらいは気持ちの整理がつかないことを心に秘めているからだろう。登場人物の抱える心のわだかまりが見る側の心のどこかにつながっている。
これは、「気持ちに整理がつかない人たち」の告白劇。整理がつかないどころか「人生を狂わされてしまった人たち」とも言える。
クイズショウの名司会者である父親がかつて家を飛び出して行った娘のアパートを訪ねる。飛び出して行ったきりで二人は長年向き合えていない。すると娘は物凄い剣幕でこの父親を罵る。父親はやむなく「自分が癌で余命いくばくもないこと」を告白する。しかし娘はそれを受け止めることもなくけんもほろろにアパートから父親を追い出す。娘はかつてこの父親から性的ないたずらを受け、その心の傷によるドラッグ中毒から抜け出せないでいる。
自宅で死の床にある元テレビプロデューサーの老人。かつて彼は、妻が癌だとわかると妻子を置いて(おそらく)別の女性の元に出て行ってしまった過去を持つ。人生も終わりに近づき自分のしたことを後悔し、生き別れた息子に一目会いたいと看護人に漏らす。息子は今や「性の伝道師」として自己啓発セミナーのカリスマ講師。汚い言葉と共に「女を落とすテクニック」を連発し聴衆を煽る。彼は父親を奪って行った「女」という存在に復讐がしたいのだろう。もちろんどこかで父親を恨んでもいる。老人の懺悔を聞いた看護人はそんな彼を捕まえて最後に親子を向き合わせようとする。
こうしたやりとりが続く。観客は常に登場人物の「親子関係に何かあるのかも知れない」という思いを抱く。この何かが物語を紡いでいく。ただし人が向かっていく方向は自分の手で変えることはできない。それはまさに運命というもの。偶然と運命の物語でもある。ポール・トーマス・アンダーソン監督のオリジナル脚本で素晴らしい。
一方で、後悔と懺悔と赦しの物語でもある。
こうした人たちをラストに向かってつなぎ合わせていくのはまさにアンダーソン監督の才能。長尺の先のカタルシスへと繋がっている。ふだんはどこかにいるが決してつながることはないバラバラに存在する人たち。親が子の心に残した傷。当たり前にあるタテの「怨」のつながりをヨコに繋いだ。観客はそこに癒しと赦しを見いだす。オリジナルの脚本の中に「偶然」という言葉を捻り出したことが素晴らしい。見ている側も日常「ひとつやふたつそんなこともあるかな」と思えてくる。ポストロバート・アルトマン。群像劇の正統な後継者。