今や世界的大女優、チャン・ツィイーのデビュー作にして、第50回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞した傑作。
都会からやってきた若い教師ルオ・チャンユーに恋して、その想いを伝えようとする18歳の少女チャオ・ディの生涯を描いたドラマとして僕は観ている。
文盲のディは手作りの料理の数々にその想いを込めて彼の弁当を作る。その気持ちに彼も気づき、いつしか二人の心は通じ合う。この映画を評している人の数多くは「純愛」という言葉を使って、この映画の素晴らしさを語っている。でも僕は、この映画の素晴らしさは「人としての資質の高さ」を描いたものだと思い、そこに感動した。
映画はすでに年老いた主人公チャオ・ディの夫が亡くなったと連絡を受けたディの息子が村に戻ってくるところから始まる。
その夫とは村で唯一の小学校の教壇に40年間、立ち続けたルオ・チャンユー、そう都会からやってきた教師、ディが恋した人である。
ディは吹雪の中で車の中で遭難するようにして召され、遠くに置かれた夫の亡骸を村の習慣に従って棺をみんなでかついで村につれてくると言って聞かない。トラクタなら半日だよと息子が言うが頑として聞かない。
そこから回想としてメインストーリー、ディが18歳の頃の話が始まる。中国が文革以前の古い時代になる。水道も電気もない頃の話だ。
まだ自由恋愛など珍しい時代にディは教師のチャンユーの目を惹こうと懸命になる。一生懸命、お弁当を作ったり、彼が一旦都会へ戻り、帰ると約束した日、大吹雪の中で道に立ち続けたり、彼が戻るまでの冬の厳寒の間に小学校の障子を張り替えたり、黒板を磨き、机を拭く。懸命に作った赤い切り絵を障子に張り付けたりする。
18歳の彼女にとって、たとえ彼が好きでも必要でもないのにディは楽しそうに、それをする。それは愛する人の役に立ちたいという想いから突き動かされる人としての質の高さだと思う。村人たちはそんなディを優しく見守り、決して止めようとせずむしろ支援する。
ディが吹雪の中で待ち続けた末、高熱で倒れ寝込んでしまう。そして意識がもうろうとする中、小学校から、かすかに彼の声が聞こえてくる。生徒が続けて唱和する声。それを聞いて目を覚ましたディはよろよろと小学校に歩み寄る。村人の一人が言う。
「先生!ディが来たよ!」彼は真剣な表情でバンッと扉を開ける。
手をつなぐシーンもない。キスもない。むろんセックスシーンもない。あるのはディに限らず村人たち、そして彼の教え子たちの人としての資質の高さだ。
金や野心や欲望ではなく「この人の役に立ちたい」とする行動と、そのハートビートだ。
ラストで僕は涙が溢れそうになった。それはとても大切なものを改めてビジュアルで見せてもらったからだ。自分を見直せる機会を与えたくれた気がした。
「初恋のきた道は」は、この人としての資質の高さを描いた映画だ。決して素朴な昔の純愛ストーリーなどではない。一人の女性の恋愛を通して描かれた「人の役に立ちたい」という人たちの物語だ。もしもあなたがアルコホーリクなら、ぜひお勧めしたい。初めて観たとき大スクリーンに映る若いチャン・ツィイーの笑顔は、キラキラとまばゆいくらいに輝いていた。