この映画を見ないと生涯後悔することになる。そう断言できる至極の映画。この日は勤め先の方と鑑賞したが、こういう映画をチョイスする方のセンスに痛み入る。残念ながら人数はそれほど多くなかったが、それでも客席の反応をうかがうと、それにもまた学びがある。
冒頭の飛行機を止めてファンハールがラージューとともに母校を目指しサイレンサーのチャトルと再会する9月5日のシーンまで、見る側はこの映画がどういう映画なのかわからないので反応はにぶく警戒感がある。そしてランチョーを探し求めるロードムービーへと展開し、学生時代の思い出、回想場面へと転換する。
前半はランチョーという人物の登場から、学校の慣習に反発する姿勢、そして友人の自殺などが出てきて重苦しいシーンも折り重なる。この映画はいわばランチョーと校長の戦いの物語だ。競争そのものを目的とし、大学の価値を上げるためだけに強権を振るう校長と、学問の本質的な意義について掘り下げようとするランチョーの戦いだ。学びとは何か?を問いつつ、権力と反体制の戦いはどの時代にも共通する普遍的なテーマだ。
そこに校長の娘でありドクターのピアが混ざり合い話しを面白くする。彼女のフィアンセがお金の価値で何事も判断するしょうもない男として登場する。このフィアンセをもランチョーは否定する。ここにも深い意味があって、日本だとバブル時代を経験した老人がいまもって権力を握り、デフレ社会の日本国民に圧政で押しつぶそうとする。人の価値を金で値踏みする人物や校長の存在は、いまの日本にも重ね合わせることができる。このあたりからダンスシーンなどの迫力もあって、観客は次第にノリノリになってくる。
ランチョーの出自を探るサスペンス的なシーンを挟んで、後半に向けた感動的なシーンや笑えるシーンから場内の空気は大きく変化する。まさに笑いあり涙あり。映画の抑揚に合わせるように、場内の空気(呼吸)も一変する。ラージューの自殺騒動と校長の頑なな姿勢の対立など、かなり激しい対立シーンの最後、豪雨のシーンに突入する。この頃になると観客はもう映画にどっぷり浸かっている。そして最後のパンゴン湖の美しい美しいシーンにすべての感動が集約されてゆく。
見る者誰もが「感動した」と言葉にする。ここは重要だ。感動を言葉にする。このことが映画だけでなく芸術に求められる部分だと思う。
なんと不思議な映画だろうか。何度も何度も繰り返しこの映画を見ても、毎回同じ感動が押し寄せる。ドラマとして特別な部分はない。それなのに見る人達は異口同音に感動を言葉にする。こんな映画が世の中にある存在するのか、と見るたびに思わせる映画。心が震える。