坂口安吾はエッセー「文学のふるさと」に書いた。「生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない」。
サタンタンゴが映す農場は「救いがない」。農民は貧しく、彼らのつながりは悪意に満ちている。他人の金をくすねようとたくらみ、他人の妻と寝る。兄は妹をだます。寡婦の母は男を家に招き入れる。妹は「客間で寝る」というささやかな望みを絶たれ、猫を殺して死ぬ。「どうしても救いがない」。
にもかかわらず、映画は美しさに満ちている。安吾はその理由も書いている。「むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救い」だからだ。「私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます」。サタンタンゴは人々の「暗黒の孤独」を描いて美しい。
だから2部で終わっていればすばらしい「芸術映画」でありえたのだ。少女は死に、「死んだ男」は人々のもとに到着しないまま、美しい映画が完成したはずだった。
だが、3部が始まってしまう。死んだ少女を前にして死んだはずの男が演説をする。「死んだ男」は演じる人の顔をしている。農民たちと全然違う。演じていることを意識している。美しさを鑑賞していればよかった画面に自意識が混入する。
そして、カラーの場面が現れる。2部まではなかったと断言できるほど記憶に自信があるわけではないが、私は3部で初めて気づいた。美が強いていた緊張が緩むことと画面に色が導入されること(あるいは強調されること)はつながっている。
端的に言って、社会が美に介入したのだ。官警が左右2本の指でタイプライターを打ち、食事をし、さらにタイプライターを打って文書を作り上げる場面が象徴的だ。人は美の世界に居続けることはできず、夢から覚めれば散文の世界が待っている。強風に飛ばされる大量の紙と大量のゴミにまとわりつかれつつ歩く黒い上着の男たちの背中にいつまでも見とれていることはできない。
ハンガリーの現代史を知らないのは恥ずかしいが、映画が夢から覚め、現実を生きだしたことは分かる。そこで何かひどいことが起き、人々が苦しんだであろうことも。再び安吾を引く。「アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから」。タル・ベーラは「大人の仕事」をした。尾骨が少々痛むけれど7時間は長くなかった。