1845年、開拓時代の米国オレゴン。
先導役の男に従って、三家族の幌馬車が牛や馬、ロバとともに川を渡っている。
女たちは、鳥かごや衣類などを頭に載せている。
川は深く、胸近くまで水が迫っている。
丘にあがった一向にひとりいる少年は聖書を読んでいる。
楽園を追われたアダムとイブの物語・・・
夜になり、男たちがなにやら話し合っている。
先導役のミークをやめさせるかどうか。
ミークは道に詳しいと言っていたものの、どうやらそれは嘘らしい。
このままでは、移民団を離れた我々は西部にたどり着くどころか、その前に野垂れ死んでしまうのではないか、と・・・
といったところからはじまる内容で、60年代あたりまで頻繁に作られた西部開拓史モノのようなスタイルだが、ハラハラドキドキのエンタテインメント西部劇とは対極に位置する。
なにせ、ケリー・ライカート監督だからね。
とはいえ、そのうちにハラハラすることにはなるのだけれど。
さて、そんなインディペンデント映画にもかかわらず、俳優陣は豪華。
先導役のミークに、ブルース・グリーンウッド(髭面で、まるで表情は見えないけれど)。
リーダ格のテスロー夫妻は、ウィル・パットンとミシェル・ウィリアムズ(映画の中核はテスロー夫人)。
年かさのホワイト夫妻は、ニール・ハフとシャーリー・ヘンダーソン(息子ジミー役は、トミー・ネルソン)。
年若いゲイトリー夫妻は、ポール・ダノとゾーイ・カザン(『ルビー・スパークス』のコンビだ)。
そして、中盤以降に登場する先住民族(インディアンと表記、発音されている)役に、ロット・ロンドー。
これが出演者のすべて。
さて、一行は西に向かっているが、飲料水も乏しくなっている。
テスロー夫人は、「何も知らないくせに、先に来た者だ、なんでも知っている、と嘘をついたことが許せない」として、ミークを嫌い、信用していない。
するうち、荒野で先住民族の男性と出くわす。
男は逃亡するが、ミークとソロモン・テスローにより捕縛される。
危険な男だ、と言い張るミークをよそに、ソロモンは先住民の男に先導させることを提案、他の家族の夫たちも承諾し、先住民の先導で旅が続けられることになった(正確には近くの水場までの案内であるが)。
この中盤から、ある種のハラハラ感が醸成されていきます。
夜間、これまでは無音の闇の荒野だったのが、先住民男性の言葉が低く響き渡り、その声にテスロー夫人はある種の不安を覚える。
移民団から離れたのは間違いだった・・・
いや、そもそも、こんな異国の、何もわからない無明の土地へやって来たこと自体が間違いだったのではないか。
楽園を追われたアダムとイブと同じではないのか・・・
一向に水場に到着しないこと、その上、行く先々で、先住民男性が壁画様の痕跡を残していることに、ゲイトリー夫人は極度の不安に怯えるようになる。
わたしたちは、先住民の一団に襲われ、皆殺しにされる、と。
いずれも、未知なる土地・未知なるひとに対する不安からくる恐怖なのだが、テスロー夫人は先住民男性に悪意がないことに気づき始める。
それに対して、ミークはいつまでも「危険な男だ、危険だ」と先住民への恐怖を煽っている。
終盤、先住民男性は丘の上で、ひとつ向こうの丘を指さし、天を仰いだりしながら何かを叫んでいる。
テスロー夫人は、それを「向こうの丘を越えたら水場がある」と解した。
(先住民男性の言葉には、日本語はおろか英語の字幕もないので、実際に何を言っているのかは正確にはわからないが)
急斜面を慎重に下したが、幌馬車三台のうち、最後に下したテスロー夫妻の馬車は抑えが効かず、大破してしてしまう。
荷物を分散して、歩を進める一行。
先導するのは先住民男性だ。
やがて、一行の前に、一本の樹が現れる。
荒野の真ん中に。
それはアダムとイブが追われた楽園にある「生命の樹」のようにも見える。
テスロー夫人は、先導した先住民男性を見つめる。
彼はまだ荒野を歩いていく、その後姿を。
わたしたちを導いてくれる者は何者なのか?
キリスト教でいうところの神なのか。
もしくは、文化的な先人なのか。
それとも・・・
20世紀を超えて21世紀に入ったわれわれの道程は、誰に導かれてきたのだろうか。
驚嘆すべき傑作でした。