作品を観ながら、改めて自分の事をふり返った時に何を感じていたのかを考えてみると『怖かった』の一言だった。
母が認知症になり、その生活は長く続くことはなかったのだけれど
認知症と付き合わなければならなくなった時に父のガンがわかった。
手術をするか否か?の選択となった時に
私は『手術をしてほしい』とお願いした。
後期高齢者の父に手術という負担を背負ってもらった。
結果として手術は成功したし、1週間余りの入院生活で退院できた。
その間、仕事を休んで認知症の母と一緒に居たのだけれど
結局自分が感じていた『怖かった』というのは
万が一父が倒れてしまった時、母の面倒を看る事をどうしたら良いのかわからなかったから。
仕事を休職する事は出来たのかもしれないけれど
面倒を看る期間というものがどれだけ長期間に及ぶのかが見当もつかなかった。
老人ホームに入れるというのが現実的な選択だったのだろうけれど
どんな場所があるのかを調べる事すら
当時の自分には思考が追い付かなかった。
介護を自分で行うのが当たり前だと思っていたのかもしれない。
だから斯波の苦闘の時間を、大友が向き合わなかった時間を
両方理解できるかもしれない。
理解できると言ったって、斯波の苦闘のような時間を体験していたわけでもない。映画ではある1シーンでしかないものが毎日のように繰り返されるし
それこそ毎時間のように繰り返されるのだから………
身体が元気で歩ける人を介護しようとしたら、突然家の外に出てしまっていきなり行方不明になってしまう事もある。
それが毎日、毎日、毎日、24時間繰り返されていく。
どれだけ精神を消耗するかわからない。
だから、斯波の行為に『救われた』と言う人がいても決しておかしくはないと理解できる。
斯波自身は自分が苦闘した時間の中で考え抜いて自分で答えを出している。
その答えを単純に他人の家族に押し付けた形。
だから『人殺し』とも言われるし『救われた』とも言われる。
そんな彼を追求しようとする大友検事の鋭い言葉が
私には斯波の言葉よりも軽く感じられていた。
大友検事は『穴にはまらなかった、逃げていた』からこそ
その身から発する言葉ではなく、事件を法律で裁こうとする言葉の為
言葉に重みを感じさせることが出来なかった。
それ以前に斯波の穏やか過ぎる存在感が
どんな鋭い言葉でも柔らかく受け止めて吸収してしまうようで
大友の言葉を斯波が吸音材のように吸収してしまっているように感じられた。
だから最後のシーンでみせた大友検事の言葉が一番
斯波の心を揺さぶったのだろう。
そんな対比を魅せつけた松山ケンイチさんと長澤まさみさんの熱演の競演。
これは本当に熱量が凄くて観ているこちらが圧倒されるほど。
そして言葉の重みがあるので、同じ空間で書記をする椎名くんにも
『自分はどうなんだろう?』と考えさせてしまう。
あれは本当に凄かった。
そして柄本明さん。
介護される父親の姿の熱演に
『ファーザー』でのアンソニー・ホプキンスさんを思い起こさせた。
アンソニー・ホプキンスさんの熱演に勝るとも劣らない演技に
ただただ魅了されるばかり。
今この瞬間にも斯波のような苦闘を、あるいは彼が勤務していたケアセンターの方々が看ていた個々の家庭のような状況に直面している多くの方々が数多くいらっしゃると思います。
団塊の世代が高齢者となり、団塊ジュニア(第二次ベビーブーム)世代がその世話に苦闘しているだろうから、きっと今の時代が一番この問題に直面している人が多くて、その人たちが作品を観た時にどんな風に感じるのか?
きっと物凄く多くを語り合える作品のはずです。
まだそういう段階に直面していない世代の方々にとっては
この作品はシミュレーションの一つになるのではないでしょうか?
実感を伴う事は難しいかもしれませんが、だからこそ作品を観て考えておくことは『心の準備』に繋がると思います。