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老人たちがケア施設存続のためにゲートボールをする。この主語と目的語が違う同工同曲の映画をどれだけ観てきたことか。パターンが悪いわけではない。王道やるなら、他とは違うディテールをどう見つけるかが勝負。認知症、引きこもり、言えなかった想いなど、類型が予定調和過ぎる結末を迎える。この手の映画の成功例を観た上でこれでいいと思っているのか。大袈裟過ぎて笑えないコメディ演技。ルールも不明だから試合にもトキメかない。娯楽映画モドキの失敗例がすべてここに。
映画を観る力がないのか、全く話が分からなかった。チラシを読んではじめて妹が事故死したトンネルでその幽霊に出会う話だと知る。でも、それで何がどうなったのか。喪失なんて、そんな簡単に埋まらないから、どこにも着地する必要はないけど。わざと分からないようにしているアングル。これを作家っぽいと褒める人もきっといるだろう。僕には自己満足にしか見えなかったけど。ただ、前号の「サイド バイ サイド」よりは画面から喚起されるものがあった。あれ、★ひとつの間違いなので。
ドキュメンタリーと銘打たれているが、敢えて脚本が上手いと言いたい。コロナ禍、一人暮らしも夫婦も子や猫持ちもみんな、孤独。バリエーション豊かな孤独。自然さ、あざとさ。虚と実。その連続が見事に映画になっている。ただあのオチは必要だったろうか。あの一言で逆算された計算が透けたような気がした。コロナであろうとなかろうと人は孤独で悩み多き生き物だと、敷衍できたテーマを小さくしてしまったような。あの人たちのコロナ後が見たい。そこで初めて組曲が生まれるのでは。
「美しい星」かと思うと、そうではない。宇宙的観点などどこにもなく、家族に宇宙人がいる設定があるだけ。土星には家族という概念がないから家族を調べに来たというが、家族について何か新しい考察があるわけでもない。アイデアオチで展開も乏しく、宇宙人の力で妹の恋人を成敗したりとか鰻が喋ったりとかバカらし過ぎて。さくら組もそうだが、こういう大袈裟な勘違い演技を是としている国が他にあるだろうか。お笑いってこういうことなの? 世界に出したら、違う意味で笑われるのでは。
「がんばれ!ベアーズ」のように弱き者たちが奮闘努力して強き者たちをくじくという典型的なスポーツ映画の筋立て。ところが、どうやってこのチームが強くなったのかという肝心の部分がおざなりで説得力がない。だからまさかの快進撃が始まってもワクワクしない。さらにいえばゲートボールのルールが最後までよくわからない。それでいて登場人物の感情表現は大仰で説明過多。人生の酸いも甘いも知るシニア世代の鑑賞には堪えそうにない。藤竜也の枯れた色気だけが救い。
目を凝らすことを強いる映画だ。セリフは少なく、特に主人公の兄と妹はほとんどしゃべらない。妹が兄に会いにいく終盤のシークエンスでは兄妹ともに顔を映さない。蜜をかけた餃子、脱ぎ散らかした靴、性交の喘ぎ声と電話のバイブ音……。画面の中の事物が画面の外の人物の感情を強く想起させる。中華料理屋で嫌味な客が若い店員にねちねちと文句を言い続けるショットで、画面の外の調理場にいる主人公のふつふつとした怒りを表現する。この監督は自分の映像言語をもっている。
ステイホーム中の男優が台所でクリームチーズを作りだしたり、夫と子供を送り出してやっと一人になった女優が突然踊り出したり。緊急事態宣言下にたくさんのセルフドキュメンタリーが作られたが、シナリオに書けないような想定外の行動がやっぱり面白い。どこまでが現実でどこからが虚構かの線引きはできないけれど、頭で作っていない部分、予定調和からはみ出す部分が魅力だ。あのころの不安、孤独、失望、怒り、あせり、苛立ち。そんな感情が生々しくゴロンと転がっている。
世界が危機に瀕している時代には決まって宇宙人ものが作られる。今もおそらくそうなのだろう。そうとでも考えないと、なぜこんな宇宙人ものを作ろうとしたのかわからない。家族愛の物語にも、奇妙なウナギやジャガイモのキャラクターにも乗れない人には、ただひたすら役者を見ることを勧める。伊藤沙莉と柄本時生がすごくいい。存在感も演技力も抜群で、二人の芝居をずっと目で追っているだけで飽きない。作り込んだドラマより、荒唐無稽なコメディーの方が役者の地力が出る。
深刻な時事問題へのアプローチのひとつと理解しつつ、すべての命運をゲートボール大会の結果が握る設定に説得力がない。似ても似つかぬ接待ゴルフとゲートボールに共通点を見出す発想はなかなかユニークなものの、あまりに卑怯な天敵像が、その面白さすら半減させる。回想場面も、キャプテン以外は誰が誰やら一緒くたの扱いで配慮に欠け、チームプレーに根差す輝ける青春を生涯貫く素晴らしさを謳う主題に反し、ベテラン俳優陣のガッツ溢れる好演も虚しく、ちぐはぐな印象を与える。
被写体が判別できぬほど仄暗く不明瞭で、台詞も喘ぎ囁き交じる聞き取りにくい場面が続き、集中力や想像力が試されるとともに、相当なストレスも強いられる。しかしその鬱屈が、ネグレクト気味の父子家庭で運命共同体として支え合い、ふたりきりで生きてきた妹を見捨ててしまった兄の、後悔と罪悪感に苛まれる心境とも重なり、怪我の功名たる効果を上げてもいる。実際に亡霊を映さず、なぎさの生前のみを鮮烈に焼きつける試みも、生ける屍と化す兄と対照を成し、余韻を悲痛に深める。
コロナで飛躍の可能性さえ奪われ、くすぶる役者の自己憐憫にも似た映像を延々と見せられても、反応に窮する。不謹慎かもしれないが、限られた尺とはいえ自分だけにスポットが当たる好機を、大半の出演者が活かしきれていない歯がゆさが、作品のコンセプトの脆弱さをも露呈しているように感じる。主演作の公開延期で傷心の末に家出する“ミセス・ノイズィ”こと大高洋子と、夜道を懸命に捜し回る校正者の夫の熟年夫婦の愛の在りようは、両者の個性の面白みもあり、さすがのインパクト。
何かと厄介事を持ち込む“家族”の面倒くささこそが地球人たるゆえんで、だから愛しくもある。それなのに、記憶の隅っこの過去からしっぺ返しを食らう末っ子や、自己中な彼氏に縛られる長女らの何気なくも根深いトラブルを、意外なところで不器用な宇宙人の特殊能力に頼り易々と解決してしまっては、地球人の名折れでないか。芸達者な演者各々の魅力とキャスティングの妙で、それなりに楽しめるが、家庭劇としての感銘に物足りなさを覚えるのも、その辺に起因するかと思われる。