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ものものしいタイトルはレーガン政権以降のアメリカを指す。監督の自伝的な部分もあり、それ故、思いがけないところにトランプ一族が出現する。まさにアルマゲドン。監督の分身めいたユダヤ系少年は学校側からは知恵遅れ(スロー)の気がある、と見られているが、これは今ならアスペルガー症候群とされるだろう。いずれにしても的外れな診断だ。黒人少年との友情が自身の無謀な家出計画のせいで危機に見舞われる顛末が縦軸。科学少年的なディテールが横軸。構成の秀逸さを愛でたい。
画面に描かれる事実と、描かれることのない背後の事実とのアンバランスが緊張感を醸し出す。例えば、名指揮者レナード・バーンスタインの晩年の弟子という主人公の履歴が果たして真実か、また彼女のターという名前の件、周囲の三人の女性との確執。いずれも物語の根幹に関わる謎が含まれる。世界(クラシック音楽業界)を徹底的に管理、抑圧して自分がのし上がる情熱に憑かれた彼女を癒すのがベイシー&ヘフティのジャズ・ナンバー〈リル・ダーリン〉だったりする面白さも格別だ。
共依存的な母娘関係の話だが、症例の絵解きに終わらない。むしろ分かりやすい解釈をはねつける凄みを感じさせる。とりわけ終盤に現れる停電の場面の真っ暗闇とそこから始まる会話劇は、劇場で鑑賞してこそ。また、病室に置き去りにされる二人のポートレイト写真の表情の理由がさらっと描かれる終局の回想シーンも上手い。似たような母娘映画を日本でやると湊かなえミステリーになるわけか。しかしこちらの生々しさは安直な比較を許さない。同性であることの哀しみが全篇にあふれる。
ワンショット映画の鑑というべき緻密な説話構造。妊娠検査薬の描写から始まり、黒人清掃員への難癖、それがさらに、と、一見無駄な寄り道と観客に思わせつつ、ちゃんとした起承転結あり。オチもおかしい。笑っちゃいけない。アジア系人種への差別の酷さは誇張じゃないだろう。ただ主人公集団をナチス信奉者やKKKメンバーに設定するのは分かりやすすぎる気もしないでもない。幼稚園の先生にこの手のマッチョな白人至上主義者が潜んでいてはアメリカがまともな国になるはずもないね。
金網のフェンスが向かい合う白人と黒人の少年たちを何度か遮る。一面のガラスでも壁でもないそれは幾何学模様の間隙から触れようと思えば触れられるが、相手の側へと決して越えることはできない。勧善懲悪が不可能な複雑さと困難のなか、暴力的に物語を断絶してしまう終幕は、明らかにこの映画のルックが醸し出すあたたかな家族映画の様相を裏切るものである。ベンチに座って数秒間沈黙を携えただけで人生のすべてを物語ってしまうようなアンソニー・ホプキンスの演技に目を見張る。
星1にも星5にもどちらにもなりうる引き裂かれを持つ映画。序盤、典型的なレズビアンと公言する主人公とパンセクシュアルを自認する学生が議論を交わす場面がまずスリリングで一気に引き込まれ、映画的な愉悦に絆されてしまう。しかしそうした現代的なイシューを鏤つつもその実、この映画は現実など無視した荒唐無稽さを抱え込む。ゆえにというべきか「地獄の黙示録」に言及する本作が、同作の批判としてあったアジアの他者化を反復しているのは何の冗談なのか戸惑う。
女の下着はあらゆる体液で汚れるのだという話で開始したのは「Obvious Child」だったが、本作でもまず経血で汚れた下着が映し出される。娘と母に割り当てられた被害者と加害者の立ち位置が決して説話上の比喩だけに留まらず、法廷で被害者の娘と加害者の母が対面することによって視覚化さえされる。この母親像はヤン・マルボクの侘しい身体表現がなければ成立せず、これが映画でなくてはならない理由はとりわけ終盤に待ち構えている。痛みを知っている側の人間の映画だ。
会話劇、車の移動、夜間撮影など長回しが選択されているとは思えないような要素で構成されてゆく本作は、アクションの交差やカメラの臨場感の出し方など技術が巧みなあまりどうしても途中から主題以上に形式が気にかかってきてしまい、結果的に監督自身に強い思いがあるのであろうこの作品にあって、この作劇手法が奏功しているかはわからない。さりげなく「ブラック・ライヴズ・マター」を「オール・ライヴズ・マター」に言い換えてしまうような人間に対する観察力が高い脚本も秀逸。
監督の自伝的な作品でありながら、最近よく見る「新自由主義の起源を80年代に探る」シリーズでもある。ジェームズ・グレイはもともと本作のようなパーソナルな関係性を描いて登場してきたが、人間描写がそこまで巧みかというとそうでもなく、むしろハッタリを利かせた時のスケール感、飛距離にこそ本領があるように思う。本作も主人公の日常や家庭内のいざこざよりも祖父役のアンソニー・ホプキンスが語る本当か嘘かわからない個人史に耳を傾けている時のほうが映画を感じられた。
「シンプルなカット割りと細やかな演出で精確に物語ることができ、何よりも人が撮れる」というのが本作の監督、トッド・フィールドの印象である。となるとそのフィールドがケイト・ブランシェットをどう撮るのかという点に注目していたが、本作は別の監督が撮ったのではないかというほど露骨な演出やシネフィルへの目配せがちりばめられた作品であった。その挑戦と熱意自体は否定しない。ただ終盤の展開にTARが演じていたモノと制作者の無意識での同一化を察知したのも事実だ。
いわゆる毒親をめぐる物語である。娘を暴力的に支配する母とその母に抵抗しながらも共依存のようになっている娘の様子が描かれる。「ロゼッタ」や「4ヶ月、3週と2日」など、社会的に抑圧された女性を手持ちカメラでドキュメント風に追いかける作品は今世紀世界中のアート映画界隈で量産消費されてきたわけだが、本作がそれらの中で抜きんでる何かを備えているかというと難しいところだ。闇中の告白や下着の扱いなどにこの作家ならではの人生が焼き付いていることは否定しないが。
2020年代ベスト胸糞映画の称号は満場一致で与えられるだろうし、ワンカットもどきで90分間持たせる高いサスペンス演出力も評価されるべきだ。しかしこれが本当に言いたかったことなのだろうか。アメリカの暗部を描こうとしてそのまま世界の闇に呑み込まれてしまっているというか。かくあるべしよりもかくありきを描くことにこそ芸術の存在意義はある。だからこそ、マイノリティ出身であろう本作監督にはかくありきを煮詰めた末に転がり出てくる何かを一瞬でも見せてほしかった。