むかい・こうすけ/1977年生まれ、徳島県出身。大学在学中に山下敦弘と知り合い、「どんてん生活」(99)「ばかのハコ船」(02)「リアリズムの宿」(03)「リンダリンダリンダ」(05)「松ヶ根乱射事件」(06)「マイ・バック・ページ」(11)など、山下監督作において数多くの脚本を共同で執筆。その他、「青い車」(04)「神童」(06)「色即ぜねれいしょん」(08)「ふがいない僕は空を見た」(12)など。10月12日公開の「陽だまりの彼女」にも参加。『文化庁新進芸術家海外研修制度』にて来年より北京に留学予定。
――では、大学で受講した授業についてはいかがでしたか?
向井3年目にコースが分かれるまでは、基礎を学びました。フィルムが主体だったので、フィルムの装填の仕方や露出。あとは外国映画史や日本映画史、シナリオ創作論など。映画史の授業は好きでしたね。教室に行って映画を見ているだけで、単位がもらえるので(笑)。
入江結構、ダメな学生だったので、1年の途中で行かなくなったんですよね。映画史の授業と、台本をどう映像化していくかという映画演出の授業だけ出席していました。ただ、1年の時にそれしか出席しなかったので、2年次からは単位を一つも落とせなくなりました。
向井シナリオについては1年次にペラ(200字)で20枚、2年次に60枚、3年次に90枚位のものを書きました。4年次になると、「卒業論文」か「卒業シナリオ」のどちらを書くかが選べたので、中島貞夫先生に書き方を教わりながら、一から本格的にシナリオを書きました。200枚以上という規定で、最終的には240枚くらいになったかな。
入江高校時代は映画を撮ったこともなかったし、周りにも全然いませんでしたから、どうやって映画を作るか分からなかった。意外と『キネ旬』にもスタッフワークは書いていないじゃないですか。だから、「とりあえず監督だよな」と思って監督コースに入ったんです。
向井早熟な人は最初から録音を志望したりしますけれど、「何を思って、音に行くんだろう?」と不思議に感じていました(笑)。
入江当時、熊切和嘉監督とかがいる大阪芸大がすごく盛り上がっていて、「大学でこんなにアカデミックなことをやっていちゃいけない。自主映画も撮ろう」ということで、学校に行かない時は仲間と集まって自分たちで撮っていましたね。ちょうどデジタルビデオが出た頃で、編集もパソコンで出来るようになっていたんで。
向井大学で学んだことも多いですけど、そこで知り合った人間の財産も大きいですね。
入江いい意味でライバルがいたのはすごく良かった。特に、「監督にどうやってなったらいいんだろう」みたいなことを話すことができた。
向井一番大きかったのが、先程の話にも出た熊切さん。僕が入学した時に3年生で、卒業制作として作り始めていた「鬼畜大宴会」のスタッフ募集という紙が校舎の掲示板に貼ってあったので、山下(敦弘)君と行ってみたんですよ。そうしたら、あんなに映画しかない人というのは初めてだった。会っても映画の話しかしないし、行くところといったら映画館かレンタルビデオ屋だし、部屋では映画をずっと見て、8ミリで作品を撮って、脚本を書いて……。
入江僕の場合は、先輩に冨永昌敬さんや沖田修一さんがいました。みんな監督になりたいけれど、なり方が分からずもがいていた。一緒にもがいてくれる仲間がいたことは、大きかったですね。
いりえ・ゆう/1979年生まれ、埼玉県出身。大学在学中に制作した短篇が03年の『ゆうばり国際ファンタスティック映画祭』にて入選。「JAPONICA VIRUS」(06)で長篇デビュー。09年に監督した「SR サイタマノラッパー」がロングラン上映され、その年の映画監督協会新人賞を受賞する。その他、「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」(10)「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ」(11)「SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」(12)など。
向井影響を受けますよね。結局、1年生の夏ぐらいに熊切さんを手伝い始めて、2年の始まりには山下君や同じ学年の仲間たちと、「自分たちも同じように撮るんだ」と決めてアルバイトをしていました。フィルム代を稼ごうと。
――学校では、「こうしたら監督になれる」というようなことを教えてもらう機会はあるのですか?
入江映画をどうやって撮るかは教えてくれるけれど、どうやって監督、脚本家やスタッフになるかということは、あまりなかったかな。だから、在学中に自ら制作部や演出部の下っ端の仕事を始める人もいましたし、僕とか冨永さんみたいに自主映画で撮り続ける人もいました。
――ではご活躍されている現在、大学時代を振り返ってどんなことを思いますか?
向井学生時代って、相当有意義だと思うんですよ。誰にも邪魔されない時間が無限にあるって、本当に自由じゃないですか。僕の場合は、「俺以上に映画を見てる奴はいない」と思って大学に入ったら一番下だったというぐらい周りの知識がすごくてまず驚いたので、映画を見てばかりいましたね。
入江「ゴダールの再来と言われている奴が来るらしい!」とか、新しい作家をいち早く見つけてくる奴もいました。日芸は東京なので、名画座も行けるし新作も見られるので、「誰が一番、映画を見ているか対決」みたいになってくるんですよ。
向井知らないのに知った振りしたりして(笑)。その後、慌ててレンタルショップに行って片っ端から借りて、1日5本くらい見ました。その他にもWOWOWを録画したビデオを、実家から段ボールで送ってもらっていましたね。成瀬、小津、増村、トリュフォーもそこで見ました。