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  • 入江悠(監督)×向井康介(脚本家)特別対談

  • 若き映画人が語る、映画を夢中で追いかけた学生時代

  • 入江悠(監督)×向井康介(脚本家)
  • 好きな映画を仕事にしたい。映像関係の職業に就いてみたい。でも、具体的に何をすればいいか分からない……。

    そんな悩みに応えるため、かつて大学で映画を学び、現在映像業界で活躍する脚本家・向井康介氏と監督・入江悠氏に、彼らが映画を夢中で追いかけた学生時代を振り返っていただいた!

自分と似た人を探し大学へ

対談風景

――高校卒業後、向井さんは大阪芸術大学映像学科、入江さんは日本大学藝術学部映画学科に入学されたわけですが、それぞれの大学を選んだ理由はどんなところにありましたか?

向井康介映画を作るとか、そういうつもりはまったくなかったんですが、地元が四国の田舎だったので、映画の話を出来る人もいなかったんです。映像系の専門学校か大学の映画学科に行けば、映画が好きな、自分と似たような人がいるんだろうなと思い選びました。

入江悠僕は昔のスタジオの人たちみたいに、大学の文学部とかを卒業してからそっちの世界に入ればいいやと思っていたんですけれども……。

向井映画はやろうと思っていたんですか?

入江思っていたんですけど、ちょっと無駄なことというか、ドストエフスキーとか読みたいじゃないですか(笑)。でも、全部落ちてしまい一浪したので、「もう、直接行っちゃおう」と思って映像系の大学を調べました。

向井僕は田舎を出たかったという理由もありました。ただ、東京に出るのは恐くて近くがいいなと思ったのと、専門学校は2年だけれども大学は4年いられるなと思い大阪芸大に決めました。

入江実は、僕は大阪芸大を受けて落ちているんですよ。関東でずっと育ち遠くに行きたかったというのもあったので受験したんですが。あとは、ニューヨーク大学の募集要項も取り寄せました。ただ、そちらは4年制の大学を出てないとだめだということが分かって、最終的に日芸に行ったんです。

向井受験もどうしたらいいか分からなかったから、徳島市で開かれた大学説明会に来ていた大阪芸大のスタッフに、「映像で行きたいんですけど、どういう勉強したらいいですか?」と聞いて。そうしたら、「とにかく『月刊シナリオ』と『キネマ旬報』という雑誌があるから、その2冊は読んでおいたほうがいいよ」と言われました。

入江インターネットがない時代だったので、僕も図書館で『キネ旬』とか読んで調べました。

向井「『ロードショー』じゃだめなんだ!」と思って(笑)。そこから受かるまで『キネマ旬報』を毎号買っていました。

――毎号! それは誠にありがとうございます(深謝)。

学校で出会った仲間

むかい・こうすけむかい・こうすけ/1977年生まれ、徳島県出身。大学在学中に山下敦弘と知り合い、「どんてん生活」(99)「ばかのハコ船」(02)「リアリズムの宿」(03)「リンダリンダリンダ」(05)「松ヶ根乱射事件」(06)「マイ・バック・ページ」(11)など、山下監督作において数多くの脚本を共同で執筆。その他、「青い車」(04)「神童」(06)「色即ぜねれいしょん」(08)「ふがいない僕は空を見た」(12)など。10月12日公開の「陽だまりの彼女」にも参加。『文化庁新進芸術家海外研修制度』にて来年より北京に留学予定。

――では、大学で受講した授業についてはいかがでしたか?

向井3年目にコースが分かれるまでは、基礎を学びました。フィルムが主体だったので、フィルムの装填の仕方や露出。あとは外国映画史や日本映画史、シナリオ創作論など。映画史の授業は好きでしたね。教室に行って映画を見ているだけで、単位がもらえるので(笑)。

入江結構、ダメな学生だったので、1年の途中で行かなくなったんですよね。映画史の授業と、台本をどう映像化していくかという映画演出の授業だけ出席していました。ただ、1年の時にそれしか出席しなかったので、2年次からは単位を一つも落とせなくなりました。

向井シナリオについては1年次にペラ(200字)で20枚、2年次に60枚、3年次に90枚位のものを書きました。4年次になると、「卒業論文」か「卒業シナリオ」のどちらを書くかが選べたので、中島貞夫先生に書き方を教わりながら、一から本格的にシナリオを書きました。200枚以上という規定で、最終的には240枚くらいになったかな。

入江高校時代は映画を撮ったこともなかったし、周りにも全然いませんでしたから、どうやって映画を作るか分からなかった。意外と『キネ旬』にもスタッフワークは書いていないじゃないですか。だから、「とりあえず監督だよな」と思って監督コースに入ったんです。

向井早熟な人は最初から録音を志望したりしますけれど、「何を思って、音に行くんだろう?」と不思議に感じていました(笑)。

入江当時、熊切和嘉監督とかがいる大阪芸大がすごく盛り上がっていて、「大学でこんなにアカデミックなことをやっていちゃいけない。自主映画も撮ろう」ということで、学校に行かない時は仲間と集まって自分たちで撮っていましたね。ちょうどデジタルビデオが出た頃で、編集もパソコンで出来るようになっていたんで。

向井大学で学んだことも多いですけど、そこで知り合った人間の財産も大きいですね。

入江いい意味でライバルがいたのはすごく良かった。特に、「監督にどうやってなったらいいんだろう」みたいなことを話すことができた。

向井一番大きかったのが、先程の話にも出た熊切さん。僕が入学した時に3年生で、卒業制作として作り始めていた「鬼畜大宴会」のスタッフ募集という紙が校舎の掲示板に貼ってあったので、山下(敦弘)君と行ってみたんですよ。そうしたら、あんなに映画しかない人というのは初めてだった。会っても映画の話しかしないし、行くところといったら映画館かレンタルビデオ屋だし、部屋では映画をずっと見て、8ミリで作品を撮って、脚本を書いて……。

入江僕の場合は、先輩に冨永昌敬さんや沖田修一さんがいました。みんな監督になりたいけれど、なり方が分からずもがいていた。一緒にもがいてくれる仲間がいたことは、大きかったですね。

いりえ・ゆういりえ・ゆう/1979年生まれ、埼玉県出身。大学在学中に制作した短篇が03年の『ゆうばり国際ファンタスティック映画祭』にて入選。「JAPONICA VIRUS」(06)で長篇デビュー。09年に監督した「SR サイタマノラッパー」がロングラン上映され、その年の映画監督協会新人賞を受賞する。その他、「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」(10)「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ」(11)「SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」(12)など。

向井影響を受けますよね。結局、1年生の夏ぐらいに熊切さんを手伝い始めて、2年の始まりには山下君や同じ学年の仲間たちと、「自分たちも同じように撮るんだ」と決めてアルバイトをしていました。フィルム代を稼ごうと。

――学校では、「こうしたら監督になれる」というようなことを教えてもらう機会はあるのですか?

入江映画をどうやって撮るかは教えてくれるけれど、どうやって監督、脚本家やスタッフになるかということは、あまりなかったかな。だから、在学中に自ら制作部や演出部の下っ端の仕事を始める人もいましたし、僕とか冨永さんみたいに自主映画で撮り続ける人もいました。

――ではご活躍されている現在、大学時代を振り返ってどんなことを思いますか?

向井学生時代って、相当有意義だと思うんですよ。誰にも邪魔されない時間が無限にあるって、本当に自由じゃないですか。僕の場合は、「俺以上に映画を見てる奴はいない」と思って大学に入ったら一番下だったというぐらい周りの知識がすごくてまず驚いたので、映画を見てばかりいましたね。

入江「ゴダールの再来と言われている奴が来るらしい!」とか、新しい作家をいち早く見つけてくる奴もいました。日芸は東京なので、名画座も行けるし新作も見られるので、「誰が一番、映画を見ているか対決」みたいになってくるんですよ。

向井知らないのに知った振りしたりして(笑)。その後、慌ててレンタルショップに行って片っ端から借りて、1日5本くらい見ました。その他にもWOWOWを録画したビデオを、実家から段ボールで送ってもらっていましたね。成瀬、小津、増村、トリュフォーもそこで見ました。

映画史の先っぽにいる実感

対談風景

入江授業中よりも、終わってから教授と飲みに行って話を聞きながら、「映画史というものの一番先っぽのところに自分がいるらしい」ということに気付かされたりもしました。

向井大阪芸大では、かつてカメラマンの宮川一夫さんが教えていたんですよ。僕が入学した時はもう亡くなっていたんですけれど、機材室の管理者の名札に「宮川一夫」と書いてあって感動しました。あと、依田義賢先生も教えていたことがあるので、溝口作品を見た後に、「これを書いていた人がいたんだ」と思ったり。

入江実は大学3年の時に、深作欣二監督も日芸出身だということを知って、交渉して大学に話をしに来てもらったんです。東映大泉の撮影所に行って、「日芸に講義に来てほしい」と直接頼んだんですが、こちらが2時間くらい話をしている間、黙ってずーっと巻タバコを巻いていて。

向井それは恐い(笑)。

入江恐いんですよ(笑)。ちょうど実習作品を作っている時だったので、自分はこういう映画を作っていて、監督になりたいんだという思いを話したら、「それだったら行くよ。ただし行くからには俺の映画を全部見ろ」と、VHSが自宅にどんと送られてきて。大学生だった時の話とかしてくれました。

――貴重な体験ですね。

入江ばかだから、打ち上げで安い居酒屋とかに連れていっちゃって(笑)。謝礼を払ったんですけど、「映画の世界は上の人間がおごらなきゃだめなんだ」と結局、打ち上げ代を全部出してもらいました。大学に入っていなかったらあの出会いはなかったですよね。

向井後々になって、すごさが分かって尊敬していくんですよね。あんなに〝クソ親父〟と思っていた中島先生も(笑)、だんだん作品を見ていくと「『893愚連隊』の人だ!」と発見したりして。聞けば、「あの時は予算がなくて……」とか答えてくれました。

入江卒業してからの方が、分かることが多いですよね。

向井『京都映画祭』に去年招かれて、入江さんとも中島先生の映画について話をしたんですけど、すごく光栄に思いました。「マイ・バック・ページ」も見てくれていて、「あそこはもう少しこうしなきゃだめだよ」と言ってくれる。生徒じゃなく同業者としてそういう話ができたことに、感動しました。

――お二人共、卒業後に就職するということは考えなかったんですか?

入江なかったですね。もちろん、CMやテレビの制作会社とかに就職した人もいましたけど、僕はぼんやり卒業しました。そうすると、ぼんやり卒業して映画を続けていく人は少ないので、冨永さんとか沖田さんとかとつるみだしたんですよ。搾りかすみたいな人たちと……(笑)。

――エキスじゃなくて、カスですか?(笑)

入江就職もせず、助監督にもならなかった人たちが残るんですよね。そういう人たちには大学に行かなければ出会えなかったので、「行ったのは無駄じゃなかったんだな」と卒業後に思うようになりました。

向井「卒業して、就職が決まる」という奴が、まったく周りにいなかったですからね。次の映画を作ることしか考えてなかったです。

プロになってからは得られない時間

――これから映像業界を目指す人たちにアドバイスをするとしたら?

入江映像系の学校に行くのは、一つの手だとは思います。仲間に会えますしね。

向井あとは映画・映像業界って、そんなに若さを求めているわけではないんです。30代、40代で監督や脚本家になる人もいる。だから大学を卒業する時点で、絶対に将来を決める必要もないと思うんですよ。

入江僕自身、大学の4年間は、「どうやって監督になるか」ということもあったんですが、「自分が何を撮りたいと思っているか」ということでも、ずっと悶々としていました。映画を見たりしながら、そういうことを考えることは重要だと思います。

向井在学中は映画を見たり、知識を吸収したり、人と知り合ったり。作ることの難しさや覚悟を知ったりする時間にあてて、卒業してから「さて、どうしよう」と考えてもいいと思います。自主映画を作ってもいいし、「やっぱり撮影だ」と思ったら撮影助手として現場に入るのもいい。今、スタッフは不足していますから。

入江海外の映画祭に行った際に、そこで勉強している日本人と話す機会があったのですが、彼らの方がもっとシビアに、「どんな立場で何を撮るのか」ということを突きつけられていますよね。それについて考える時間は、あればあるほどいいと思います。現場に足を踏み入れることは、すぐにできると思うので。

向井あと、映画をやりたい若い人たちの中には、一人で作れると思っている人もいるかもしれないけど、決してそうではない。どれだけ人を巻き込んで一つの組織として作っていくかなんだということを、意識してほしいです。

入江人を巻き込んでいく力がないと、映画はできないですからね。

向井機材も手軽になって、個人でも作れるようにはなったけれど、「集合体で作るものが映画なんだ」ということは知っておいてほしい。

入江そう考えると、学生時代はプロになってからは得られない幸福な時間がありました。いまの自分に繋がっていると思います。