1945年夏、樺太西海岸・真岡町。太平洋戦争は既に終末を迎えようとし、報道機関は刻々迫る終焉を報じていたが、戦禍を浴びない樺太は、緊張の中にも平和な日々が続いていた。真岡郵便局の交換嬢たちは、四班にわかれて交替で任務についていた。彼女たちは仕事の合い間にスポーツや音楽会などで楽しい青春の時を適していた。8月6日、広島に原爆が投下された数日後、ソ連は突如、参戦し、日本への進撃を開始した。その報を聞いた律子は心を痛めた。彼女の恋人・忠夫が国境の日の丸監視哨の小隊長として警備についていたのだ。札幌での楽しかった二人の思い出が瞼に浮かぶ--だが、楽しかるべき青春を考える余地はなかった。怒涛の如く戦車を先頭に南下するソ連軍は、次々と町を占領していった。戦禍に追われた罹災者たちは、長蛇の列をなして真岡の町をめざした。交換嬢たちは、刻々と迫るソ連軍の進攻と、急を告げる人々の電話における緊迫した会話を、胸の張り裂ける思いで聞き入っていた。そして、彼女たちは、秘かに青酸カリを胸にかくし持っていた。8月15日--。全く突然に終戦の報がもたらせられた。それはあまりにも突然で信じられなかった。やがて、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出された。だが、交換嬢二十人は引揚げもせず、“決死隊”の編成に参加し、交換手として職務を遂行しようと互いに励ましあい、責任をはたそうと心に誓うのだった。しかし、ソ連の進攻はやまなかった。むしろ、その進攻に激しさを加えてきた。そして8月20日。突如、真岡の町の沿岸にソ連艦隊が現われ、艦砲射撃を開始した。人々はうろたえ、ある者は逃げ、ある者は最後の抵抗を試みようとした。しかし、艦砲射撃とマンドリン銃の前に、捨身の闘いは通じなかった。やがてソ連軍は上陸を開始、町は紅蓮の焔と銃の乱射によって様相を変えた……。この時、関根律子を班長とする第一班の交換嬢たちは局にいた。緊急を告げる電話の回線と、まだ避難を続ける町の人々へ、その避難経路を告げ、多くの人々の生命を守るためにも、彼女らは職場を死守した。じりじりと迫るソ連兵の群。ただ一本の電話廻線からは、局長の職場を捨てるように、との声が聞こえる。律子はポケットから青酸カリの瓶を出した。他の八人の乙女たちは律子の側に寄った。そして、彼女ら九人は服毒した。最後まで電話交換嬢として、プレスを耳にかけたまま……「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……」。--現在、北海道稚内市・稚内公園内に、失われた樺太を遥かに望んで、厳しい風土に耐えて生きぬいた樺太民島を象徴するかのような女人像が建っている。これは「氷雪の門」と呼ばれている。