神奈川県横浜市の生まれ。1962年に日本大学横浜学園高校を卒業後、ダンプカーの運転手、キャバレーのドラマーなど転々と職を変えたのち、64年に第4回東宝ニュー・タレント募集に合格。同年の恩地日出夫監督「女体」の端役で、本名の“黒沢年男”を芸名として俳優デビューする。しばらく芽が出なかったが、66年の成瀬巳喜男監督「女の中にいる他人」でのバーテン役が認められ、続く成瀬監督「ひき逃げ」66では高峰秀子の弟役に扮して好演。これが出世作となり、同年の「パンチ野郎」で星由里子、「伊豆の踊子」67で内藤洋子を相手に主役をつとめるようになる。岡本喜八監督の大作「日本のいちばん長い日」67では、終戦反対のクーデター計画の首謀者格である青年将校を熱演。野性的な線の太さを見せて、演技派としても注目されるようになった。その後は東宝青春映画に立て続けに出演。「颱風とざくろ」「育ちざかり」「青春太郎」67、「さらばモスクワ愚連隊」「年ごろ」68などに準主演ないしは助演を重ねる。恩地日出夫監督の「めぐりあい」68では、工業都市・川崎の自動車工場に勤める青年に扮し、酒井和歌子を相手役に、立ちふさがる社会状況やそれぞれの家庭が抱える現実問題を巧みに織り込みながら、若いふたりの純粋な愛と成長が真摯に描かれた。この成功で東宝青春映画のトップの座に躍り出た黒沢は、次いで「街に泉があった」「燃えろ!青春」68でも酒井と共演、名物シリーズ「社長繁盛記」68では森繁久彌の社長の秘書役として、酒井を恋人とする独身青年を爽やかに演じた。さらに小林正樹監督「日本の青春」68では主演の藤田まことの息子役に起用されるなど、複雑な心理描写も演じることのできる若手俳優としての地位を確保する。69年、新人の西村潔監督とハードボイルド「死ぬにはまだ早い」で組み、次に、「年ごろ」でも組んだ新鋭・出目昌伸監督の青春映画の佳作「俺たちの荒野」に主演。屈折した現代の青年像を見事に演じ、ともに代表作とする。その後もハードボイルド路線は、西村監督「白昼の襲撃」70、中平康監督「栄光への反逆」70、福田純監督「野獣都市」70などに引き継がれた。三船敏郎の若い頃を思わせる男性的で陰影のある容姿とドスの利いた声という特徴は、当時全盛の若大将=加山雄三に代表される健康優良児的な東宝青春スターの中にあって、珍しく線の太い硬派の俳優として異彩を放っていた。しかし、新人監督による意欲作はいずれも興行的に失敗。それとともに黒沢の個性を活かす企画も必然的に消滅していく。71年に西村監督「凄い奴ら」、山本迪夫監督「雨は知っていた」、五社英雄監督「出所祝い」などに出演したのち、東宝を退社。以後はフリーとなって、東映「新網走番外地・吹雪の大脱走」71、「仁義なき戦い・頂上作戦」「あゝ決戦航空隊」74、「トラック野郎・一番星北へ帰る」78、東宝のミステリー「血を吸う薔薇」「ノストラダムスの大予言」74などに出演する。その間の66年8月、シングル『僕の恋人どこにいる』で歌手としてもデビュー。75年に『やすらぎ』、78年に『時には娼婦のように』をヒットさせるなどしてお茶の間の人気も獲得した。70年代後半からは、持ち味を活かしきれなかった映画から離れ、テレビドラマの二枚目に転身。TBS『三つ首塔』77、フジテレビ『大空港』79、『華の嵐』88、NHK『草燃える』79、『宮本武蔵』84、『八代将軍吉宗』95、テレビ朝日『ザ・ハングマン』80~82、テレビ東京『あぶない少年』87などに出演する。92年に大腸癌が発覚、療養を経て復帰後はゆったりしたペースで仕事を続けたが、2000年に芸名を現在の“黒沢年雄”に改名してから、NHK『葵・徳川三代』00、日本テレビ『金田一少年の事件簿』01、フジテレビ『いつもふたりで』『ムコ殿2003』03、『もやしもん』10、TBS『ホームドラマ!』04、テレビ東京『誤算』08などのテレビドラマに積極的に出演を重ねる。また、“元映画スター”のイメージを活かした軽妙な話術が評判となり、近年はバラエティ番組の出演も多くなっている。08年には膀胱癌の内視鏡手術も行なった。著書に『二流芸能人が何度がんになっても笑って生きている理由』10がある。78年、ファッションモデルの街田リーヌと結婚、娘は女優・タレントの黒沢レイラ。