二・二六事件の衝撃を利用して、軍部の政治進出がはじまった。日華事変、日独伊三国同盟、軍部は大陸進攻をつづけながら、着々と国内統制を強化して総力戦体制を作りあげて行った。軍部の期待を担って近衛内閣が成立し、東条英機が陸相に就任した。しかし、泥沼に陥った、日華事変に焦った軍部は、南方進出を企て、その結果アメリカとの関係は険悪になった。海軍の米内光政や山本五十六はあくまで対米戦争の不可を強調したが、彼等は次第に孤立化した。そして近衛内閣は倒壊、次期内閣首班は東条に大命降下した。その間にも軍部の中には、開戦への大きな流れが渦を巻いており、東条ももはやそれを替えることは出来なかった。そして開戦。山本五十六指揮による真珠湾奇襲攻撃の大戦果はかやのそとにおかれていた国民を湧かせるに十分だった。マレー沖海戦、シンガポール戦略と、戦果は相いついだ。東条も今までの心労が一気に吹きとんで、大いに意気があがった。しかし、ミッドウェーの大敗を機に戦局は逆転した。そしてガダルカナルの悲惨な敗北。新聞記者新井五郎はこの撤退作戦に海軍報道班員として従軍し、はじめて前線の真相を知った。だが、大本営は厳重な言論統制をしき楽観的な誇大戦果を発表していた。新井は弾圧を覚悟で、真実を報道することを決意した。長い間、真実に飢えていた読者からの反応はすばらしかった。しかし、軍の反応もまた強烈だった。新井は報道班員の召集免除の慣例を無視しての陸軍の策動で徴罰召集された。やがて、サイパン島陥落。王砕した兵士の中には、新井と一緒に召集された老兵たちも混っていた。東条批判の声はますます高まり、内閣総辞職を余儀なくされた。その頃、新井は海軍の尽力で再び報道班員として、フィリピンに赴いていたが、二度と還らぬ特攻機をみながら、戦争をくいとめることが出来たかも知れない新聞人としての自分を責めていた。しかし、もうすべては遅かった。敗戦を信じぬかのように東条のあのカン高い声がなおも響いていた。戦争はそれからなお一年ばかりも続き、激しい空襲に日本の国土も人々も、壊滅的な打撃を受けたのであった。