伍代俊介は、自由で民主主義的なものが日々失なわれてゆく時代に対しても、長男英介のイニシアチブで軍に接近をはかる伍代家そのものに対しても、いらだちと怒りをつのらせていた。その上、彼は英介のもとの婚約者で、狩野という男と味気ない結婚生活を送っている人妻温子に恋をしていた。若者らしいひたむきさで愛を告白する俊介に対して、温子の心はともすれば動揺しがちだったが、人妻である温子にとって、俊介以上に辛く切ないものだった。俊介の親友である標耕平は、すでにその頃から、将来どのような危険に身をさらそうとも、反戦活動に生きようと決心していた。俊介の妹順子の耕平に対する愛もよくわかっていたが、耕平は順子を危検に捲き込むことを恐れた。事実、耕平に影響を与えた画家の灰山や小説家の陣内はすでに捕えられ、特高刑事の凄惨な拷問を受けていた。活動そのものではなく思想傾向が逮捕の対象になる時代になっていた。一方、満州大陸では、さまざまの人が、さまざまの理想、欲望に向って戦い、暗躍していた。満州国建設は関東軍の手で強引に作り上げられたものだけに、内外に多くの矛盾をはらみ、治安もまた安定していなかった。大財閥に先がけて大陸進出を画策する伍代由介とその弟ですでに満州で商社を経営する喬介は現地の富豪趙大福に接近、合資会社設立を持ちかけていた。実業一点ばりの由介にくらべて、喬介のやり方はもっと荒っぽく、軍の上層部と通じて大規模な阿片密売を行っていたが日本軍の特務機関としてそれを摘発したのは、皮肉にも満州へ転属になっていた柘植進太郎だった。柘植は、伍代家の謀略的なやり方に反対したため左遷されて再び東京に配転されたが伍代家の長女由紀子と再会をはかる間もなく、相沢中佐による永田鉄山軍務局長斬殺事件が起こった。統制派と皇道派という軍内部での主導権争いによる事件だったが、それは皇道派青年将校たちのクーデターにまでエスカレートした。二・二六事件である。深刻な不況と軍部権力の増大は、日本を巨大な戦争に向けて走らせる強力なバネになった。俊介は、息苦しい国内を脱出して、新しい生活を求めて満州に渡った。学業もやめ、自分ひとりの力を試すつもりだった。だが、その前に現われた温子の夫狩野の卑劣な人間性に対する怒りから、一度は断念した温子への愛が再び燃え上った。俊介は、温子を満州によび寄せる電報を打った。大連港のホテルの一室で、俊介は温子のふるえる肩を抱いた。せきを切ったように二人は激しい愛の歓喜に身をゆだねた。しかし、狩野は二人の前に立ちふさがり、陰険な方法で俊介をゆすった。俊介には自由に出来る金はなく、結局喬介に頼むしかなかったが、温子は自分のために俊介が傷つくことに耐えられず、結局、狩野のもとに帰っていくしかなかった。同じ頃、耕平と順子にも、やはり別離の時がやってきた。耕平は反戦運動のために捕えられ、灰山と同じように特高の拷問と戦っていた。ファシズムに対する戦いは、大陸でも執拗に続けられていた。朝鮮人徐在林、満人白永祥は、抗日パルチザンの指導者として武器をとり、趙大福の娘瑞芳も抗日運動に積極的に身を投じた。日本人医師服部は、危検の追った瑞芳を上海に亡命させるために、彼女を鴻珊子に托した。昭和一一年一二月、大陸の抗日運動は歴史的な転換を見せた。張学良の努力で、内戦を続けていた国民党の蒋介石と共産党の周恩来の間に内戦停戦が結成されたのである(西安事件)。のっぴきならぬ力の対立はもはやとどめようもなく全面的戦争に向って突っ走っていった。それは、多くの愛を引き裂き、多くの人々の運命を捲き込んで加速度を増した。昭和一二年七月。蘆溝橋での銃声を合図に、日本は中国に対する長い侵略戦争に踏み込んでいった。