【社会派とメロドラマを使い分けた娯楽映画の巨匠】鹿児島市の生まれ。東宝の製作の実権を握っていた藤本真澄とは生年月日が同じで、山本が早大、藤本が慶大の出身である。一女三男の末っ子で、すぐ上の兄は俳優の山本学・圭・亘の父。中学2年を終えた時に上京、1930年に第一早稲田高等学院に入学。在学中は左翼演劇に夢中になる。卒業後、かねてより知り合いだった伊藤大輔の助言に従い33年4月に松竹に入社した。成瀬巳喜男につくが、34年、成瀬はP.C.Lに移ることになり、山本もついていく。37年、監督に昇進する。監督第1作は「お嬢さん」で、“坊ちゃん”の女性版。次いで「母の曲」、「家庭日記」(38)と吉屋信子原作が3作続き、原節子「田園交響楽」(38)などメロドラマ監督として頭角を現した。その後は戦時中とあって撮りたい作品も撮れずスランプに陥る。だが、陸軍が誇る新鋭戦闘機“隼”のPR映画「翼の凱歌」(42)(脚本は黒澤明)でやっとスランプを抜け出す。「熱風」(43)の後に召集され、終戦を中国で迎える。国府軍に抑留され、46年6月に帰国する。【政治社会派ドラマのエースとして活躍】戦後第1作は亀井文夫と共同監督の「戦争と平和」(47)でキネマ旬報ベスト・テン2位。48年10月東宝争議の責任をとって東宝を退職、フリーとなる。地方新聞社が地元のボスと闘う50年に「暴力の街」を撮り、同年2月、亀井文夫・今井正とともに新星映画社を設立。陸軍兵営内の非人間性を痛烈に暴露した「真空地帯」(52)、戦前の名高い印刷所の大争議を描いた「太陽のない街」(54)を撮り、55年に山本プロを設立。「浮草日記」(55)、「台風騒動記」(56)、社会風刺の喜劇「赤い陣羽織」(56)、貧農の家に生まれた女性の一代記「荷車の歌」(59)、権力に挑む教員を描く「人間の壁」(59)、同じく代議士を描く「武器なき斗い」(60)、「松川事件」(61)、「乳房を抱く娘たち」(62)などでの、単なるメッセージ映画ではない重厚な人間描写は、山本の円熟を物語っている。62年からは大映作品が多くなり、「忍びの者」(62)、「赤い水」(63)、「傷だらけの山河」(64)と骨太な娯楽作をこなす。東映で撮った「にっぽん泥棒物語」(65)は松川事件をベースにした裁判批判劇の秀作だった。以降「氷点」(66)、「座頭市牢破り」(67)、「牡丹燈籠」(68)などの娯楽作を撮る一方、医学界に鋭くメスを入れた傑作「白い巨塔」(66)がキネマ旬報ベスト・テン1位を獲得。山本薩夫が娯楽性をもった政治社会ドラマの第一人者であることを証明した。この製作の姿勢は、「戦争と人間」3部作(70~73)、山崎豊子原作の「華麗なる一族」(74)、「不毛地帯」(76)、石川達三の「金環蝕」(75)などのオールスター大作路線へと続き、商業主義の中で、ひたすら反権力の姿勢を前面に押し出しながらも、優秀作を撮り続けた巨匠として、他の追随を許さなかった。