大正六年三遊亭歌笑は五日市に生まれた。生来の珍顔と酷い近眼で、周囲の人から馬鹿にされ通しのかれは、落語家になる事を決心し、ついに故郷を飛び出し東京に向った。二十二才の春であった。東京に来てみたものの田舎者の彼を拾ってくれる師匠はいなかった。がひょんな事から金楽師匠と知り合い落語修業に専念した。金平と名を改めて美よし亭で初舞台を踏んだが、完全に失敗に終った時を同じくしてとん平が弟子入りし実力の伯仲する二人は良きライバルであったが、前座責任をとん平にとられたばかりか、初恋の人おひさの結婚話を聞いて目の前が真暗になった。しょげている金平を励ます師匠の“自分の道は自分で切り開け!”の言葉に奮起した。そして啄木詩集にヒントを与た新作落語をあみ出し、名も歌笑とかえて売り出した。太平洋戦争もクライマックスの時である、兄弟子のしゃもじが自殺したのもこんな時であった。欣々亭の娘春藤ふじ子と結ばれ終戦をむかえた。笑いを忘れた国民はむさぼるように「純情識集」に聴き入った歌笑も続々新鮮な笑いをまき散らした。真打ち披露も終え、歌笑の創作意欲はますます昂まった。歌笑の純情詩集は巷に流れ流行語となった。歌笑の落語大衆化への夢はかぎりなく拡がった。が不幸が突然おとずれた、後援会結成に駆けつけた歌笑がジープにはねられ、帰らぬ人となったのだ。時に昭和二五年五月三十二歳の働き盛りのことであった。