昭和二十八年、水と白壁の美しい町柳川に、千枝子は嫁いで来た。夫正之とは見合いであったが、優しい正之との間は、町中の話題になるほどの、おし鳥夫婦であった。正之は中学校の、千枝子は小学校の先生であったが、千枝子は優秀な教師であるばかりか、よき妻、よき嫁であった。ある日、突然千枝子を襲った指の痛み、チョークをもつ手が、食事の仕度をする手が、しばしば激痛に、襲われた。やがてその痛みは全身を走り、全身の関節を侵していった。義母は千枝子の正体の知れぬ痛みが、過労が原因だと知らされ、世間態をはばかり千枝子の症状に困惑したが、義父は心から千枝子の病状を案じた。別府国立病院にリューマチスの患者として入院する頃、千枝子の身体は自分で動かすことの出来ない重症であった。だが正之と千枝子は、現代医学を信じ、一日に数通の愛の書簡を交わしながら、健康な日の訪れを待った。千枝子が、妻、女としての情を短歌に託したのはこの頃であった。入院して三回目の夏、千枝子は一時、退院したが、彼女の闘病生活に新しい苦悩が加わった。九州に根強く残る子なきは去るの風習、言葉にこそ出さぬが、周囲の眼は、鋭敏な千枝子の心をゆすった。私は夫の完全な妻ではありえない。私に出来ることは、正之を自由に解放してあげることだけ……毎夜、夫の姿を見て、病床に涙する千枝子に、正之は、人間の愛は精神で支えうると、励ましつづけた。離別を迫りながら、正之の許可がでないまま、千枝子は周囲の反対を押し切って、二度目の手術を決意した。自殺するに等しい手術、千枝子は、手術の失敗を祈った。麻酔がさめた朝、千枝子は、夫を解放出来ぬ自分に慟哭した。義父が死に、正之の留守になった家を、千枝子はたんかで里に帰った。半狂乱でかけつけた夫の側で千枝子は目をつぶったまま、「こうしていても、目にうつるのは、貴方の姿ばかりですよ」とつぶやいて、涙が一すじ頬をすべった。