昭和十八年の冬、一人の鉱夫が警察で死んだ。死因に疑いがあるということで、弁護士の正木が遺族から、調査を依頼された。正木は死亡診断書に死因が、脳溢血とあるのを怪しんだが、警察や検事は死体を見せようともしなかった。正木は、そこに拷問死のにおいをかぎ、いかに戦時下とはいえ、官憲の横暴、残虐さに激しい怒りを覚え、この事件を徹底的に調査しようと決心したのである。調査するうちに、脳溢血という診断が、明らかに偽証であることがはっきりした。しかし、死体はすでに埋葬され、いかに弁護士とはいえ、警察の許可なくしてそれを掘り返すことは出来なかったし、警察が自らの不正を暴露するようなことを許すはずもなかった。正木は東大教授福畑に相談してみた。福畑はただ一言、遺体はいらない、死因を調べるには首だけあれば十分、と言う。一瞬、驚いた正木だったが、首切り作業の適任者として紹介された中原とともに、死体が埋葬されている茨城県蒼竜寺に向った。極秘裏に死体から首を切り離し、それを医学部教授の福畑に見せて死因を調べて貰おうというのだ。風が唸り、粉雪の舞う墓地で、この作業が行なわれた。死んだ男の仲間の鉱夫が見張りに立っていた。ついに中原は首を切り落した。早速、正木はその首を隠し持って東京行きの列車に乗り込んだ。しかし、正木たちの動きを察していた警察は、正木と中原のあとをつけ、列車内で所持品検査をやったのだ。この危険を脱することが出来たのは、中原の機転のお蔭だった。やがて、研究室に持ち込まれた首は福畑によって綿密に調べられ、死因が脳溢血ではなく、激しい殴打によるものと断定されたのだった。昭和十九年二月から、三十年末まで、前後十二年間にわたって裁判を重ねた「首なし事件」の最終的なきめては、正木弁護士が持ち帰った首の診断書だったのである。