足利将軍の、世継ぎ争いに端を発した応仁の乱は、以後五十年もの間、京の都を荒廃に陥れた。虐げられつづけた農民が、一揆を起したのもその頃だが、武士階級にはそれを鎮圧する力も、すでになかった。染物職人の新吉は、土一揆のあったある夜、笛の上手な不思議な女あやめを知り、荒れた御堂の中で一夜を共にした。翌朝、家に帰った新吉は、母が侍に殺されたのを知った。一方相次ぐ一揆に手を焼いた管領細川晴元は、町民を狩り集めて一揆の本拠山科に攻め入った。そこには貧農に味方する馬借の頭熊左がいた。新吉たち町民は熊左の一隊と戦ったが、侍は逃げ、結局は新吉たちは利用されているだけだった。戦いが終って、新吉の心には侍階級に対する不信感が強くなった。町民たちも税金を払わないことで特に対抗しようとしていたが、そのためには、町民の団結力を見せる必要があった。そこで新吉は、戦乱で三十年もの間途絶えていた町民の祭典、祇園祭を再興しようと決心した。新吉はその相談に、貧乏公卿言継を訪ね、そこであやめと再会した。言継はあやめに祇園ばやしの笛を習えと勧めたが、あやめは新吉に、教えようとはしたかった。彼女は河原者の娘で、町衆とは素直に心を通じあえなかったのだ。その頃、管領は税金を払わない町民に、関所を設け関税を払わせることで対抗した。そのため京に入る食糧は欠乏し、町民は飢えに苦しんだ。新吉は、死を覚悟で熊左に会いに行き米を運んでくれるよう頼んだ。熊左は一言の下に拒絶したが、そこに現われたあやめの説得で、新吉の依頼を引受けたのだった。熊左の一隊が米を運んで京の町に現われた時、町民は熱狂して出迎えた。やがて、いつか身分を越えて心の通じるようになった新吉とあやめは、笛の練習に幸福な日々を送るようになった。祇園祭の準備は着々と進んでいた。一方、侍たちはこの祭りを邪魔しようとしていた。ついに祭の日が来た。盛大に装いを凝らした山鉾かゆるゆると動き出した時、侍や僧兵が立ちはだかった。だが、彼らは熊左たち馬借の一隊に退けられた。しかし物陰から放たれた矢で新吉は重傷を負ってしまったのだ。胸に矢をつき立てたまま、新吉は熊左の手を借りて山鉾に上った。蒼白な顔で仁王立ちになった新吉の姿は、京の町民の象徴のようなものだった。侍たちはあまりの気迫に手出しも出来なかった。道が開き、再び山鉾が動きはじめた時、新吉はそのままの姿勢で息絶えていた。