群雄割拠の戦国時代。一介の軍師に過ぎない山本勘助にはしかし、壮大な野望があった。名君武田晴信に仕官して、天下を平定しようというものだった。勘助は暗殺劇を仕組んで武田の家老板垣に恩を売り、計略通り晴信の家臣になったのだった。天文十三年三月、晴信は勘助の進言で信濃の諏訪頼茂を攻めた。やがて機を見た勘助は和議を唱えた。諏訪方が従属を誓うなら戦わない方が得だからだ。新参者勘助の進言に諸侯は激昂したが、晴信は勘助の言を入れ、和議の役目を勘助に任したのだった。無事に和議を整えた勘助は、三度目に頼茂が来城したさい部下に命じて頼茂を斬った。目的のためには冷酷非情な手段をいとわぬ勘助を、晴信は頼もしく思うと同時に、底知れぬ恐しさを感ずるのだった。主を失った諏訪高島城は難なく武田の手におちた。勘助は全滅の城内で自害を図る由布姫を救った。父を欺し討ちにした人でなしと罵られながらも、勘助は類いまれな美貌の由布姫を、秘かに愛し始めていたのだ。だが、由布姫は晴信の側室に迎えられたのだった。武田勢は破竹の勢いで周辺を勢力下において行った。残る当面の敵は更級郡を支配する村上義清のみとなった。天文十五年武田勢は勘助の奇略で、戦わずして義清の属城信州戸石城を手中に収めた。その年、由布姫は父の仇晴信の子を生んだ。天文二十年二月、晴信は出家し、名を信玄と改めた。その頃、同じく天下平定の野望を持つ越後の上杉憲政も名を謙信と改め、入道になった。天下を目指す二人は、相戦う宿命を自覚しながら、その機をうかがっていた。四年後、由布姫は二十七歳で世を去った。慟哭する勘助の生き甲斐は、母布姫の子勝頼の成人を見ることだった。永禄四年八月十五日、上杉謙信は一万三千の大軍を率いて川中島に戦陣を布いた。一方の武田信玄は一万八千の軍勢を指揮して川中島の海津城に進出した。やがて戦いの火蓋が切って落とされた。勘助は謙信の背後の妻女山から攻撃し、敵を追い落とすという作戦をとったが、謙信はこの作戦を事前に察知し、前夜のうちに軍勢を移動し、一気に武田の本営に攻め込んできた。このため武田勢は防戦一方に追い込まれた。勘助はこの危機に、自ら決死隊を率いて、敵の本営を目がけて突撃した。決死の奮戦で敵の一陣を突破した時、雑兵の槍が勘助の脇腹に突きささった。アブミを踏張って立ち上る勘肋の目に、妻女山の背後に回っていた坂垣信里の軍勢がようやく到着、その一大集団がうつった。安心した勘助だったが、右から左から無数の刃が勘勘を襲いつづけていた……。