映画史の中で「巨人」と呼ばれる戦後ヨーロッパの監督たち。
思いつくままにフェリーニ、ヴィスコンティ、タルコフスキー、ワイダ・・・・。
ゴダール、トリュフォーは巨人のイメージではないが、彼らの顔写真は見ているし、
撮影現場での演出風景は想像出来る。
イングマール・ベルイマンの顔は知らなかった。
よって撮影の合間に俳優やカメラマンと談笑する姿など想像もつかない。
寡黙な芸術家。頑なに何者をも近づけず、神と対話するか如く静粛にカットを重ねていく。
私は何故か勝手にマックス・V・シドーの厳格さをベルイマンの顔や姿と重ねていた。
要はこんなベルイマン無知を背景として『叫びとささやき』のレイト上映を観たわけだ。
一方でベルイマンは映画研究のテキストみたいな存在だといえると思うが、
お勉強などではなくもっと全身全霊を込めて作品と対峙すべきなのだとも思った。
或いは一旦、ベルイマンであることを忘れて対峙するの一考かもしれない。
ただ映像が常に過呼吸を帯びている様相の中で、
四人の女優の生理レベルの葛藤と慟哭には怖気ざる得なかった。
先に挙げた巨人たちの代表作。『道』『ベニスに死す』『惑星ソラリス』『灰とダイヤモンド』・・・・全部好きな映画だ。
それらの中に見られる通俗性にすがればどの作品も楽しく観ることが出来る。
しかし『叫びとささやき』に通俗性を見出すことは出来なかった。
ようやくベルイマンの顔をネットで検索してみる。
マックス・V・シドーとは似ても似つかぬ風貌。撮影現場での笑顔。
どことなくタランティーノに似ている気がした。