黒澤明監督作品「天国と地獄」(1963)であります。エド・マクベインの小説『キングの身代金』を原作とし、脚本は黒澤明・菊島隆三・久板栄二郎・小国英雄の四名が担当。音楽は佐藤勝。
製靴会社「ナショナル・シューズ」の常務・権藤(三船敏郎)は、価格が高くなつても品質の良い靴を作る事を最優先させる仕事人。しかし売上の不振を理由に、安い靴を多量に売りたい他の重役連・神谷(田崎潤)、石丸(中村伸郎)、馬場(伊藤雄之助)らとは意見の対立が激しくなつてゐます。
権藤には成算があつて、密かに自社株を買ひ占め実権を握らうとしてゐました。その資金5000万円の小切手を大阪へ届ける為、秘書の河西(三橋達也)を派遣せんとします。
ところがそんな権藤の元へ、息子の純(江木俊夫)を誘拐し身代金3000万円を要求する電話がかかつてきました。実は犯人は間違へて、権藤のお抱へ運転手の青木(佐田豊)の息子・進一(島津雅彦)を誘拐したのですが、構はず権藤にカネを求めます。これで河西の大阪行きは頓挫。
百貨店・高島屋の配送トラックに偽装した警察の車が早速到着し、戸倉警部(仲代達矢)以下、田口部長刑事(石山健二郎)、荒井刑事(木村功)、中尾刑事(加藤武)が権藤家に詰めます。犯人からの要求は、現金3000万円を幅七糎の鞄二つに詰めて用意しろといふもの。権藤は当初、ここで3000万円を出すと株の買占め資金がなくなり、会社を追はれて総てを失ふので身代金の支払ひを拒否します。しかし河西の哀願、妻伶子(香川京子)の説得もあり最終的に承諾するのです。
犯人は電話で、カネを持つて下り特急「第二こだま」に乗れ、と指示します。権藤に加へ戸倉ら警察側も密かに「こだま」に乗り込みますが、更に指示が飛び、酒匂川の鉄橋が過ぎたら鞄を車外に落せといふ。特急は固定窓で開きませんが、洗面所に七糎だけ開く小窓があり、其処から投げろと。要求通りにすると進一は約束通り返してくれましたが、犯人は捕まらずカネは持つていかれるといふ事態に。このあとは、戸倉たちの執念の犯人捜査が始まるのです......
一応総ての黒澤監督作品は観てゐますが、わたくしは余り良い黒澤映画の鑑賞者ではございません。「用心棒」なんかは好きですけど、現代劇ではこの「天国と地獄」が一番好きかな。誘拐捜査と報道に就いて影響を与へた社会派作品であるけれど、単純にサスペンスものとして眞に見応へがあります。
身代金受け渡しの道具に使はれたのは当時の国鉄のエース、初の電車特急となつた151系「こだま」。それまで電車と言へば都市内交通(地下鉄や国電、路面電車など)に限定で、長距離を走る特急にはやはり機関車が客車を牽引するものが充当されてゐました。その常識を打ち破り、それまで東京大阪間を最速の「つばめ」でも8時間30分かかつてゐたのを、一気に6時間30分まで縮めた画期的な電車特急でした。
配役陣は豪華で、上記以外でも警察関係を中心に志村喬・藤田進・土屋嘉男・名古屋章、マスコミに千秋実・三井弘次・北村和夫らで大滝秀治や梅野泰靖がノンクレジットと云ふのも凄い。
その他ワンシーンのみで西村晃や山茶花究、三船を慕ふ老工員に東野英治郎、火夫に藤原釜足(煙突から出る桃色の煙!)、江ノ電を熱く語る沢村いき雄など忘れ難いですな。個人的にはこだまのビュッフェで、糞面白くもない顔で過す渋谷英男が気になりました。本多猪四郎作品なら彼はやはりマスコミ関係でせう。そしてこの役は勝部義夫で決まり。
前半は三船が主役で、企業内ミステリかと思はせる序盤。三橋達也が案外小者感を出して情けない役。それが誘拐事件が発生し後半は仲代達矢の犯人に対する怒りからの執念の捜査が繰り広げられます。中盤以降、犯人が完全に断定されて以降が少し中弛み感あり。犯人山崎努の、三船に対する憎しみの動機がイマイチ伝はらないし。
確かに木村功も言つてゐたやうに、丘の上に御殿がデンと聳えてゐれば、何だお高くとまりやがつて、と云ふ心持にはなるでせうが、誘拐までするか喃......尚、山崎努のラストはあんな演技ではなく、あくまでも人間離れした冷徹さを貫いて頂きたかつたと存じます。観客が最後まで憎憎しいと思ふくらゐが丁度いいのです。