恋愛とは幸せになることではなく、返って不幸になることである。
阪東妻三郎の好演によって、本作の三船敏郎は見劣りするなんて評価があったりするのだが、そんなことはない。三船もとても好演している。これで彼が賞を取っていないのが不思議なくらいだ。稲垣浩監督も最初は当時40代で演じた阪妻のことを考えると、30代の三船にはちょっと若いかと考えていたそうだ。ところが「生きものの記録」の老け役を観て、これはイケると考え直したそうだ。だが、三船は阪妻の好演が自分にできるだろうかと出演を渋った。稲垣監督は阪妻のことは忘れて、この作品では三船なりの無法松を作ろうと説得したようだ。
そして三船はうまく無法松を演じた。無教養で乱暴な男ではあるが、情に熱いし女性には奥手であるというのは三船の柄にあっているのもあるだろうが、自分の地を演じると言うのは難しい。自分の持っている個性は客観的に見る事ができない。客観的に見て演じるのであれば、自分にはないキャラを演じた方が良いのだ。
三船と言えば黒澤明とのコンビが世界中を席巻したけれども、稲垣浩監督とも20本組んでおりこれは黒澤と組んだよりも本数が多い。二人は黒澤以上に気が合ったのではないだろうか。改めて三船と稲垣の作品を観直して検証したくなる。
この映画は邦画の恋愛映画としては屈指の傑作だと思う。恋愛映画と言えば女性が夢見そうなロマンチックな場面が印象的であれば名作になるだろう。だが、この映画は男目線での恋愛映画である点も恋愛映画としては異色であると思う。
無法松は軍人の未亡人に恋をした。だが、昔の日本男子なので素直に惚れちょるなんて言えない。そうでなくても自分は車夫で向こうは軍人さんの未亡人、身分の違いも感じただろう。真剣に恋をすればするほどプロポーズするのにためらうという気持ちはよく分かる。無法松と自分では性格が正反対であるが、同性としてこの主人公の気持ちはよくわかるのである。だからこそ切ない。
無法松が思いきってプロポーズをすればたとえ未亡人が亡夫に操を立てて断るという結末を迎えようとも、これで彼の気持ちのモヤモヤは解消されたはずである。これをいつまでも引きづっていたらなんにも前に進めない。彼は未亡人を愛するあまり、自分が汚く見えるというというのも、それも分かる。自分が未亡人に恋する資格がないと卑下する。自分をそうやって否定する。これが切ない。
大林宣彦監督は人を恋することの切なさ、辛さを描いてきたが、この稲垣浩監督も「無法松の一生」では大林監督と同じように不器用な男が恋したことの悲劇を描いている。
それにしてもこの未亡人の鈍感さはちょっとと思う。これだけ自分と息子によくしている無法松の態度に自分に気があるのかしらと少しも思わないなんてどんなに世間知らずなんだと思う。当時は上流階級の軍人の妻になるのであれば、まあ未亡人も蝶よ花よと育てられたのだろう。一般庶民とは感覚のズレがあるかもしれないが、これはいくらなんでも鈍感すぎる。この未亡人の鈍感さもこの悲劇を招いた一因のように思う。
だが、それについてはある人の動画を見てなるほどと思ったことがある。この映画の時代背景では日本人がお互いに助け合って生きるのが普通だった。したがって未亡人が無法松の親切は当たり前のこととして自分に恋愛感情があるとは思わなかったという意見である。うん、その通りかもしれない。当時の日本人の親切心が無法松の恋には仇となったわけだ。それも一理あるかもしれない。
自分の意見を曲げない頑固さと思うかもしれないが、それでもこの未亡人の鈍感さは無法松にとって罪だったと思うぞ。