ミリオンダラー・ベイビー

みりおんだらーべいびー|Million Dollar Baby|Million Dollar Baby

ミリオンダラー・ベイビー

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レビューの数

126

平均評点

79.1(1215人)

観たひと

2089

観たいひと

168

基本情報▼ もっと見る▲ 閉じる

ジャンル ドラマ
製作国 アメリカ
製作年 2004
公開年月日 2005/5/28
上映時間 133分
製作会社 マルパソ・プロダクション=ラディ・モーガン・プロダクション
配給 ムービーアイ、松竹
レイティング
カラー カラー/シネスコ
アスペクト比 シネマ・スコープ(1:2.35)
上映フォーマット
メディアタイプ
音声

スタッフ ▼ もっと見る▲ 閉じる

キャスト ▼ もっと見る▲ 閉じる

解説 ▼ もっと見る▲ 閉じる

実の娘に縁を断たれた初老のトレーナーと、苛酷な境遇の女性ボクサーの間に生まれた絆を描くヒューマン・ドラマ。監督・製作・音楽・主演は「ミスティック・リバー」のクリント・イーストウッド(主演も兼ねた前作は「ブラッド・ワーク」)。製作・脚本はこれが映画デビューとなるポール・ハギス。原作はF・X・トゥールの短編小説。撮影は「ミスティック・リバー」のトム・スターン。美術も「ミスティック・リバー」のヘンリー・バムステッド。編集も「ミスティック・リバー」のジョエル・コックス。共演は「ザ・コア」のヒラリー・スワンク、「ブルース・オールマイティ」のモーガン・フリーマンほか。2005年アカデミー賞4部門(作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞)、同年ゴールデン・グローブ賞2部門(監督賞、ドラマ部門主演女優賞)など多数受賞。

あらすじ ▼ もっと見る▲ 閉じる

トレーラー育ちの不遇な人生から抜け出そうと、自分のボクシングの才能を頼りにロサンゼルスにやってきた31歳のマギー(ヒラリー・スワンク)。彼女は、小さなボクシング・ジムを経営する名トレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)に弟子入りを志願するが、女性ボクサーは取らないと主張するフランキーにすげなく追い返される。だがこれが最後のチャンスだと知るマギーは、ウェイトレスの仕事をかけもちしながら、残りの時間をすべて練習に費やしていた。そんな彼女の真剣さに打たれ、ついにトレーナーを引き受けるフランキー。彼の指導のもと、めきめきと腕を上げたマギーは、試合で連覇を重ね、瞬く間にチャンピオンの座を狙うまでに成長。同時に、実娘に何通手紙を出しても送り返されてしまうフランキーと、家族の愛に恵まれないマギーの間には、師弟関係を超えた深い絆が芽生えていく。そしていよいよ、百万ドルのファイトマネーを賭けたタイトル・マッチの日がやってきた。対戦相手は、汚い手を使うことで知られるドイツ人ボクサーの”青い熊“ビリー(ルシア・ライカー)。試合はマギーの優勢で進んだが、ビリーの不意の反則攻撃により倒され、マギーは全身麻痺になってしまう。寝たきりの生活になり、やがて死を願うようになった彼女。フランキーは悩みながらも、マギーの呼吸器を外して安楽死させてやる。それから彼は、長年の友人である雑用係のスクラップ(モーガン・フリーマン)らを残し、自分のジムから姿を消してしまうのだった。

キネマ旬報の記事 ▼ もっと見る▲ 閉じる

2020年7月上旬号

巻頭特集 キネマ旬報創刊100年特別企画 第7弾 2000年代外国映画ベスト・テン:ベスト16

臨時増刊2月21日号 KINEJUN next vol.01

特集 拳闘×映画 ボクシング映画の魅力:「えびボクサー」「ミリオンダラー・ベイビー」

2005年11月上旬号

DVDコレクション:第219回 「ミリオンダラー・ベイビー」

2005年8月下旬特別号

日本映画紹介/外国映画紹介:ミリオンダラー・ベイビー

2005年6月下旬号

巻頭特集 「ミリオンダラー・ベイビー」:グラビア

巻頭特集 「ミリオンダラー・ベイビー」:クリント・イーストウッド インタビュー

巻頭特集 「ミリオンダラー・ベイビー」:イーストウッドと娘たち

巻頭特集 「ミリオンダラー・ベイビー」:ヒラリー・スワンク インタビュー

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巻頭特集 「ミリオンダラー・ベイビー」:崔洋一、イーストウッドを語る

巻頭特集 「ミリオンダラー・ベイビー」:作品評

巻頭特集 「ミリオンダラー・ベイビー」:イーストウッドの新作

2024/01/20

2024/01/22

87点

VOD/Amazonプライム・ビデオ 
字幕


過酷な人生に救いはあるのか。。。

トレーナーのフランキーと女子ボクサーマギーの物語。二人とも今の生活に何かしらの問題を抱えている。フランキーは娘との関係だったり育てているボクサーの事だったり。マギーも子供の頃から金銭的に厳しい生活を続けており何とか抜け出したいともがいている。マギーはボクシングで何とか成功するため名トレーナーフランキーにコーチになってもらうよう粘り強くアプローチし、ついに念願叶うが。。。前述の通り二人の生活環境は決して良くなく全体的に暗い雰囲気が漂い、そんな中二人はボクシングを通じて成功への道のりを進み始めるように見えるのにやっぱり問題が見え隠れする。全編を通じて明るい物語ではなく、人生の厳しさをこれでもかという程突きつけてくる。マギーはいじらしく純粋にフランキーを慕い、フランキーもマギーを懸命に育てていく中ボクシングで結果が出てきて二人の心が通い合うのは、作中唯一の心の拠り所のように見える。しかしこの作品の結末は残酷なリアルさをもって迫る。フランキーは作品の前半では教会に通いながらもその態度に真摯さはなかったように見えたが、終盤教会に一人でいる姿、牧師と真剣に語り合う姿は本当に痛々しい。一方マギーに対する家族の態度も悪魔のように冷たい。そして物語の結末を迎えた時、観ている人たちはこの作品をどのように処理して良いのか、苦しさすら感じる。しかしいつでも現実はうまくいくわけではないし、何かしらの判断や行動が求められる。雑用係のスクラップが話す最後の言葉は、それでも人生の中に希望がある事を伝えている。とても物悲しい雰囲気の中、彼の言葉は本当に小さい一筋の光なのだろう。心を強く打たれ引き込まれた。傑作であることに疑いはない。

2023/03/30

84点

VOD/Amazonプライム・ビデオ 
字幕


敗者の物語

ネタバレ

ジムの経営は赤字続き、唯一の身内である娘からは縁を切られてしまっている孤独なトレーナーのフランキー。
彼のジムで住み込みの雑用係をしている元ボクサーのスクラップ。
スクラップは有能なボクサーだったが、タイトルに挑戦するのにはまだ早すぎたのか、タイトルマッチで敗れて片眼を失明してしまい、ボクサー人生にピリオドを打たれてしまう。
それでもスクラップは挑戦させてもらったことに感謝していると答える。
その姿を間近で見ていたフランキーは、才能ある選手の挑戦にはとても慎重になっていた。
彼のジムの看板ボクサーでもあるウィリーも実力は申し分ないのだが、フランキーはなかなか彼のタイトル挑戦を承諾しない。
そしてついにタイトルマッチが決まった時に、ウィリーは自分の将来、そして愛する家族を守るためにフランキーの下を去る決意をする。
実はとても愛情深く、選手の将来を考えているのに、言葉足らずで不器用なために損をしてしまうフランキー。
これはハートは熱いが、器用に生きられない者たちの物語。
家族と反りが合わず、ウェイトレスの仕事で客の食べ残しをこっそり包んで持って帰るような貧乏生活を送るマギーは、ある日フランキーを訪ねボクシングの指導を願い出る。
しかし女は教えないとフランキーは彼女の願いを退ける。
それでも諦めない彼女は、彼のジムに入り、誰にも教えられないままサンドバッグを打ち続ける。
ジムの退館時間になっても帰らず練習を続ける彼女を見かねて、スクラップはこっそりフランキーの道具を貸して彼女にアドバイスを送る。
スクラップはフランキーにマギーが会費の半年分を納めていると言うシーンがあるがそれは嘘だろう。
そしてウィリーが去った直後の喪失感を抱えるフランキーも、ついに彼女を受け入れる決心をする。
何だかんだでハートの熱さを持った人間をフランキーは好きなのだろう。
やがてマギーとフランキーの名コンビは華々しい活躍を見せる。
対戦選手が恐れをなして試合を避けるほどの実力を身につけたマギーは、出る試合のほとんどを1ラウンドで決めてしまう。
しかしそれでもフランキーは王者への挑戦に対しては慎重だった。
マギーは手にした賞金で、疎遠になった母親のために家をプレゼントする。
自分はトレーラー暮らしのままなのに。
フランキーは孝行娘だとマギーを褒める。しかし彼女の母親は、生活保護を打ちきられるなどの理由をつけてマギーの行為を責める。
マギーは母親の喜ぶ顔が見られると思ったのに。
家族を見返すためにボクシングを始めた彼女だが、やはり家族に認めてもらいたいという想いが強かったのだろう。
フランキーはマギーの落胆を見て、ついに王者からのオファーを受ける。
背中に「モ・クシュラ」と書かれたガウンをマギーに送るフランキー。
その意味は後半に明かされる。
対戦相手のビリーは卑怯な手を使うことで知られていた。
試合が始まり、正々堂々と戦うマギーに対して、反則技を繰り出すビリー。
それでも試合はマギーに優勢だった。
自分の劣勢にカッとなったビリーは、ゴングが鳴った後なのにも関わらず、背後からマギーにパンチを浴びせる。
受け身を取れないまま倒れたマギーは、病院に搬送され全身麻痺となってしまう。
フランキーは自分がオファーを受けたことで、マギーを絶望の淵に追いやってしまったことを悔やみ、スクラップに八つ当たりをしてしまう。
マギーの母親はなかなか彼女の見舞いにも訪れず、ついに現れたと思ったら財産をすべて自分に預けるように弁護士を連れて彼女に要求する。
もちろんマギーの試合のことなどまったく眼中にない。
マギーは反則を受けたわけで、試合に負けたのではない。
しかし母親にとってマギーは敗者と同じなのだ。
マギーはその場で母親との縁を切る。
そしてフランキーに自分に取り付けられた呼吸器を取り外してくれるように頼む。
フランキーはそれは出来ないと答えるが、苦しむ彼女を見て葛藤する。
教会の神父は決して彼女の要望を答えて、人の道を踏み外してはならないとフランキーを諭す。
スクラップはここで死んでも、マギーは良い人生だったと答えるだろうとフランキーに言う。
そしてついにフランキーは、「モ・クシュラ」に込められた意味を彼女に告げ、彼女への愛のために呼吸器を取り外す。
そしてフランキー自身も姿を消してしまう。
とても後味が悪く、悲しい結末だ。
最初にこの映画をスクリーンで観た時は、ただただ後味の悪さしか感じなかった。
その印象は今も同じだが、この映画に込められたメッセージを色々と考えてみた。
この映画は不器用な者たちの、そして敗者の物語だ。
敗者の美学というものもあるのだろうが、とにかくラストは観ていて辛い。
栄光と絶望は紙一重だ。
ストーリーには大きく絡まないように思えるデンジャーというボクサーの存在が印象的だった。
彼は口だけは達者だが、実力はまったくない。しかしハートは熱い。
フランキーは彼を無視しているが、スクラップは彼を目にかけていた。
そんなある日デンジャーはジムの連中にボコボコにされる。
誰だって人生一度は負ける、そう声をかけるスクラップだが、デンジャーはその日から姿を消してしまう。
しかし最後にまたデンジャーはジムに戻ってくる。
それがこの映画の唯一の希望だが、新たな絶望の始まりかもしれない。
そしてこの映画はスクラップのモノローグに始まり、スクラップのモノローグに終わる。
彼が語りかける相手は最後に分かるのだが、このスクラップという語り手の存在がとても大きな意味を持っているように感じた。
マギーの母親がマギーの試合も見ずに敗者だと決めつけてしまったように、おそらく誰も敗者の物語など知りたくもないだろう。
しかし敗者にも立派な物語がある。
フランキーが、マギーがどのように生きたか、それを観客にしっかりと伝えるのがスクラップの役目だ。
そして実際に世の中には熱いハートを持ち、愛情に溢れていながら、辛い人生を送っている人たちがいる。
そして卑怯な手を使ってのうのうと生きている者も。
フランキーの心がいつか救われる日が来ることを願わずにはいられない。
そしてマギーの魂があの世で救われることも。

2023/03/27

2023/03/28

83点

VOD/Amazonプライム・ビデオ/レンタル/テレビ 
字幕


老トレーナーと女子ボクサーの信頼

どうしてもこのトレーナーに教えを乞いたい女子ボクサーが、彼のジムを訪れる。偏屈な爺さんが、次第に心を開き、なところはよくある話。
中盤から後にかけて、2人の抱えているものや、ジムの友人、周りの人々など気になることが増えていき、後はラストに向かって。
2人の考えを支持したくなった。

2023/01/27

2023/01/27

85点

その他/BShi録画 
字幕


やっぱり モ・クシュラ

1月25日放送のNHK「世界サブカルチャー史 側貌の系譜(14)」を見て、本作品が取り上げられていたので、BSHの録画をまた見てしまった。
マギー(ヒラリー・スワンク)の生まれた世界はサブカルチャー。
彼女自身は二度もアカデミー賞を受賞しているが、マギーと同様に幼いころはトレーラー・ハウスに住んでいたとか。
精一杯に生きた人生でした。
何度見てもいいですね。

2022/12/04

2022/12/05

-点

選択しない 


前半のテーマ:ボクシングを通じた成長
後半のテーマ:尊厳死

前半で出てきたセリフが後半で違う意味を持ってまた出てきたりする。めちゃくちゃ良くできたストーリー。

2022/08/01

2022/08/02

90点

テレビ/無料放送/NHK BSプレミアム 
字幕


「二人に取り巻く苛烈な迄の試練ーその厳しい生き様に映されるは苦悩と言うものだが」

ネタバレ

 寂しくて寂しくて…寂しくて寂しくて、唯々それだけで体が持たないよーなぁマギー。何で死んだ。何で死ぬ事を選んだんだよ。俺の胸の裡はお前を失って、もうすっからかんのかんだ。叩けば渇いていて虚しい音がするばかりだ。労咳にでも為った様な気分だぜ。会いたいよぉーマギー。
 これはこの映画を観終えて、観終えた直後に未だ観終えた後の自分の感想も整理出来ていない中で、唯々自分の感じた言葉を劇中の登場人物=フランキー(クリント・イーストウッド)だったらどんな言葉に身を寄せて自分の今日唯今の心境を語って聞かせるだろうと言う、取り留めの無い想いを取り留めの無い儘に、想い付く儘に一つの「言葉」として結んだものだ。だから、そんなだからこの取り留めも無く綴ったものをして映画批評などとは言えるものでは無いし、映画感想文ですら無い。が、観終えた直後に観客の背負ったものを映画の「世界観」、或いはその映画が指し示す或る種の「哲学」と結び付けて映画の描こうとした世界に反映させるならば、この映画が描こうとした世界観を最も端的に直截的に呼び覚まし、映画批評へと発展させて行くキーワードはと言えば、その言葉は間違い無く「モ・クシュラ」だ。
 「モ・クシュラ」=これはアイルランドで話されているゲール語で「あなたは私の全て」と言う意味なのだそうだが、それでは果たしてこのゲール語の意味の上で、あなたと私は誰と誰に掛かって来るものだろうか。詰まりはモ・クシュラ=「あなたは私の全て」と言う意味の裡、あなたは誰の事を指し、私は誰の事を謳ったものかと言う事ーこの解釈がずれて来ると作品に対する評価も大きく変わって来る。私は最初、私とはトレーナーのフランキーであり、あなたとはフランキーの営むボクシングジムに入って来るマギー(ヒラリー・スワンク)の事だと想い、意識してその意識下の壁に我が身を滑らす様にして観ていた。その見方は或る意味で真っ当で的を得ていたんだと思う。ボクサーとしては相当の処に行って居ながら寄る年波には勝てず、それでも現役引退後のトレーナーに転向後も転戦に次ぐ転戦の中で家庭を顧みる事も無く、唯自分の信じた道と仕事に精一杯切実に「懸ける」事が日々禄に面と向かっては話をする事も無い家族の為だと頑なに信じて、そんな自分の生き方を罰する様に生きて来た男=フランキー。自分の職業ボクサーとしての資質と能力において無鉄砲にも何も分かっていない危なっかしさが常に見え隠れするガードの甘さが在るも、それでも自分がしがみ付いて来たボクシングに最貧困層の生活からの脱却とハングリースピリットを強く匂わせて一発のパンチ、自分のボクシングに「賭ける」マギー。そんな二人の育った生活環境は兎も角、共に家族を持ちながらその家族が足枷、手枷に為って自分達を縛り、その生き方において自分の思う儘に生きる自由を拘束する、最早自らの立ち返る場所=根っこを失くした「根無し草」と為って世間を這いずり回るよりこの先生きて行く術を見失った、嬲られ者である事を共通因子に「映画」は語られる。最早既に自分達がそれぞれの家族との向き合い方の中で大切にして来た草の根を根っこから引き抜かれて棄てられてしまった事に起因する、或る男とその男に遵って行く事を決めた女の道行きー。その世話物の情話を日本ならば近松門左衛門や四世鶴屋南北が見せた様な恨み節の中に描き込んだのだろうが、イーストウッドは人の情けに沁みついてこの世に遺恨を遺す霊に憑いて回られる様な恨み節にはしなかった。どう語ったかと言うと、このフランキーとマギーの二人を、旧約聖書に登場するアダムとイヴとして描いたのではないか。詰まる処、この物語は装いも新たに現代に魅せる「失楽園」なのだ。映画の最初から時々入るフランキーと神父との会話が気に為った。映画の本筋とは直接関わりを持つ訳では無いのに何か気に掛かる。心がざわついてしょうがない。が、物語が進行する程にこの映画が今日的社会の中で暗示的に見せる現代の「失楽園」では無いのかとその物語の触り=感触に気付いてからはキリスト教の教義や教えの正しさを説く神父を前に、落語の「蒟蒻問答」の様にしたたかな質問を飛ばすフランキーとの遣り取りが、この一本のひとつの映画の前説にさえ見えて来る。
 この世の誰よりも家族を愛して止まないのに。が同時に感情表現が下手で、思っている事の三分の一も家族にさえ、いえ家族為ればこそ伝えられないでいるー頑固親父と言う言葉で括ってしまえばそれ迄だが、人はそうそう相手の事を気遣ってくれる訳では無い。其処でフランキーは娘に宛てて手紙を書く事にした。書いて書いて書き続けた。が結果は何時も同じ。何年出そうが全て音信不通だった。音信不通で返却されて来た手紙はあっという間に大きな箱を埋め尽くしていた。これが娘の返事なのか。長い歳月に亘って家庭を顧みなかった顛末は「これが罪滅ぼしのつもりか。あんたの遣っている事は贖罪にさあエなっていないじゃないか」とそっぽを向かれている様だった。マギーの場合はもっと深刻だ。貧しい事は決して罪では無い。がその貧しさも常態化し最早貧困などと言う言葉を遣わずとも貧しい事が当たり前の日常とも為ると、様々な事に鈍感に為り、様々な事に横柄にさえ為るものなのか。トレーラーハウスの家を出て独り自活しているマギーも家族にとってみれば自らのアイデンティティを拘束していた家の問題から解放され自分の求める世界に飛び出して行った時点で妬みの感情しか心に残らず、それ以降のマギーは他の家族にとってその時既に金蔓の存在でしか無い。そんな二人=根っこを引き抜かれ互いに生きて行く土壌を見失った二人が相手への深い尊敬と慈愛と共に茨の道を生きて行く道行きに遺された世話物語。其処に「失楽園」の物語が花を咲かすーそしてその姿は決して仇花では無い。
 こうやって見て来ると「モ・クシュラ」の意味する「あなたは私の全て」とは決して特定の個人と個人を関連付けるものでは無く、少なくとも此処で言うあなたとは救世主イエス=キリストの事を云ったものだと言う見解もまた成り立つ。今日的社会に生きる我々が自らの手で招いてしまった人間の[業]に端を発する失楽園での、我々個人一人一人と救世主キリストとの関係、そして其処に揺蕩う神の子イエスを間においての向き合い方ーその事がフランキーと神父との会話と言う[前説」を介してキリスト教の教えの中身について奥へ、奥へと分け入って探られて行く。この映画の目指す処はそう言う、生き方に苦悶する人間の信念なのだが、ともするとそれでも生きて行かなければいけない茨の道を前にして、フランキーもマギーもキリスト教の教えを唯従順に受け入れる事に尚も懐疑的だ。映画ではこの二人の生き方に救われる道の無い事で「懐疑的」に為っている人生の道行きの葛藤を描く事で、それでも生き続けなければいけない、人間の「生」の苦しみと哀しみ、憐憫の感情が弥が上にも観る者に鋭く斬り込んで来る。もとより此処に在るのはキリスト教の教えの正しさを説く映画では無いが、唯一つの正義感を前に人の人生が嬲られ、弄ばれる事にさえ繋がる「生」の苦悶を描く事で同時に人を鼓舞する正義感の中に併せ持つ理不尽さを衝いて、それでも尚埋められない不条理の重みに想いを奔らせている。