「二人に取り巻く苛烈な迄の試練ーその厳しい生き様に映されるは苦悩と言うものだが」
ネタバレ
寂しくて寂しくて…寂しくて寂しくて、唯々それだけで体が持たないよーなぁマギー。何で死んだ。何で死ぬ事を選んだんだよ。俺の胸の裡はお前を失って、もうすっからかんのかんだ。叩けば渇いていて虚しい音がするばかりだ。労咳にでも為った様な気分だぜ。会いたいよぉーマギー。
これはこの映画を観終えて、観終えた直後に未だ観終えた後の自分の感想も整理出来ていない中で、唯々自分の感じた言葉を劇中の登場人物=フランキー(クリント・イーストウッド)だったらどんな言葉に身を寄せて自分の今日唯今の心境を語って聞かせるだろうと言う、取り留めの無い想いを取り留めの無い儘に、想い付く儘に一つの「言葉」として結んだものだ。だから、そんなだからこの取り留めも無く綴ったものをして映画批評などとは言えるものでは無いし、映画感想文ですら無い。が、観終えた直後に観客の背負ったものを映画の「世界観」、或いはその映画が指し示す或る種の「哲学」と結び付けて映画の描こうとした世界に反映させるならば、この映画が描こうとした世界観を最も端的に直截的に呼び覚まし、映画批評へと発展させて行くキーワードはと言えば、その言葉は間違い無く「モ・クシュラ」だ。
「モ・クシュラ」=これはアイルランドで話されているゲール語で「あなたは私の全て」と言う意味なのだそうだが、それでは果たしてこのゲール語の意味の上で、あなたと私は誰と誰に掛かって来るものだろうか。詰まりはモ・クシュラ=「あなたは私の全て」と言う意味の裡、あなたは誰の事を指し、私は誰の事を謳ったものかと言う事ーこの解釈がずれて来ると作品に対する評価も大きく変わって来る。私は最初、私とはトレーナーのフランキーであり、あなたとはフランキーの営むボクシングジムに入って来るマギー(ヒラリー・スワンク)の事だと想い、意識してその意識下の壁に我が身を滑らす様にして観ていた。その見方は或る意味で真っ当で的を得ていたんだと思う。ボクサーとしては相当の処に行って居ながら寄る年波には勝てず、それでも現役引退後のトレーナーに転向後も転戦に次ぐ転戦の中で家庭を顧みる事も無く、唯自分の信じた道と仕事に精一杯切実に「懸ける」事が日々禄に面と向かっては話をする事も無い家族の為だと頑なに信じて、そんな自分の生き方を罰する様に生きて来た男=フランキー。自分の職業ボクサーとしての資質と能力において無鉄砲にも何も分かっていない危なっかしさが常に見え隠れするガードの甘さが在るも、それでも自分がしがみ付いて来たボクシングに最貧困層の生活からの脱却とハングリースピリットを強く匂わせて一発のパンチ、自分のボクシングに「賭ける」マギー。そんな二人の育った生活環境は兎も角、共に家族を持ちながらその家族が足枷、手枷に為って自分達を縛り、その生き方において自分の思う儘に生きる自由を拘束する、最早自らの立ち返る場所=根っこを失くした「根無し草」と為って世間を這いずり回るよりこの先生きて行く術を見失った、嬲られ者である事を共通因子に「映画」は語られる。最早既に自分達がそれぞれの家族との向き合い方の中で大切にして来た草の根を根っこから引き抜かれて棄てられてしまった事に起因する、或る男とその男に遵って行く事を決めた女の道行きー。その世話物の情話を日本ならば近松門左衛門や四世鶴屋南北が見せた様な恨み節の中に描き込んだのだろうが、イーストウッドは人の情けに沁みついてこの世に遺恨を遺す霊に憑いて回られる様な恨み節にはしなかった。どう語ったかと言うと、このフランキーとマギーの二人を、旧約聖書に登場するアダムとイヴとして描いたのではないか。詰まる処、この物語は装いも新たに現代に魅せる「失楽園」なのだ。映画の最初から時々入るフランキーと神父との会話が気に為った。映画の本筋とは直接関わりを持つ訳では無いのに何か気に掛かる。心がざわついてしょうがない。が、物語が進行する程にこの映画が今日的社会の中で暗示的に見せる現代の「失楽園」では無いのかとその物語の触り=感触に気付いてからはキリスト教の教義や教えの正しさを説く神父を前に、落語の「蒟蒻問答」の様にしたたかな質問を飛ばすフランキーとの遣り取りが、この一本のひとつの映画の前説にさえ見えて来る。
この世の誰よりも家族を愛して止まないのに。が同時に感情表現が下手で、思っている事の三分の一も家族にさえ、いえ家族為ればこそ伝えられないでいるー頑固親父と言う言葉で括ってしまえばそれ迄だが、人はそうそう相手の事を気遣ってくれる訳では無い。其処でフランキーは娘に宛てて手紙を書く事にした。書いて書いて書き続けた。が結果は何時も同じ。何年出そうが全て音信不通だった。音信不通で返却されて来た手紙はあっという間に大きな箱を埋め尽くしていた。これが娘の返事なのか。長い歳月に亘って家庭を顧みなかった顛末は「これが罪滅ぼしのつもりか。あんたの遣っている事は贖罪にさあエなっていないじゃないか」とそっぽを向かれている様だった。マギーの場合はもっと深刻だ。貧しい事は決して罪では無い。がその貧しさも常態化し最早貧困などと言う言葉を遣わずとも貧しい事が当たり前の日常とも為ると、様々な事に鈍感に為り、様々な事に横柄にさえ為るものなのか。トレーラーハウスの家を出て独り自活しているマギーも家族にとってみれば自らのアイデンティティを拘束していた家の問題から解放され自分の求める世界に飛び出して行った時点で妬みの感情しか心に残らず、それ以降のマギーは他の家族にとってその時既に金蔓の存在でしか無い。そんな二人=根っこを引き抜かれ互いに生きて行く土壌を見失った二人が相手への深い尊敬と慈愛と共に茨の道を生きて行く道行きに遺された世話物語。其処に「失楽園」の物語が花を咲かすーそしてその姿は決して仇花では無い。
こうやって見て来ると「モ・クシュラ」の意味する「あなたは私の全て」とは決して特定の個人と個人を関連付けるものでは無く、少なくとも此処で言うあなたとは救世主イエス=キリストの事を云ったものだと言う見解もまた成り立つ。今日的社会に生きる我々が自らの手で招いてしまった人間の[業]に端を発する失楽園での、我々個人一人一人と救世主キリストとの関係、そして其処に揺蕩う神の子イエスを間においての向き合い方ーその事がフランキーと神父との会話と言う[前説」を介してキリスト教の教えの中身について奥へ、奥へと分け入って探られて行く。この映画の目指す処はそう言う、生き方に苦悶する人間の信念なのだが、ともするとそれでも生きて行かなければいけない茨の道を前にして、フランキーもマギーもキリスト教の教えを唯従順に受け入れる事に尚も懐疑的だ。映画ではこの二人の生き方に救われる道の無い事で「懐疑的」に為っている人生の道行きの葛藤を描く事で、それでも生き続けなければいけない、人間の「生」の苦しみと哀しみ、憐憫の感情が弥が上にも観る者に鋭く斬り込んで来る。もとより此処に在るのはキリスト教の教えの正しさを説く映画では無いが、唯一つの正義感を前に人の人生が嬲られ、弄ばれる事にさえ繋がる「生」の苦悶を描く事で同時に人を鼓舞する正義感の中に併せ持つ理不尽さを衝いて、それでも尚埋められない不条理の重みに想いを奔らせている。