画家の熊谷守一(1880-1977)を描いた作品で、
沖田修一監督作品では、『さかなのこ』(2022)、『横道世之介』(2012)が共に
「実在の人物をモデルにして創作した主人公によるフィクション」
だったので、
この作品も同様だと思われる。
冒頭で、池谷のぶえが沢田研二の「危険なふたり」(1973)を歌うのと、
(ちなみに、その歌を横で聞いていた主人公の妻を演じたのは、「ジュリーー!」の持ちネタがある樹木希林)
ザ・ドリフターズの荒井注が脱退して志村けんが加入した事(1974年)を話題にしていたので、
時代設定は、1973~1974年頃。
(ただし、「先生は新幹線を知らないから、信州(の蓼科)から(池袋?まで)何十時間もかかったと思ってる」
みたいな台詞は、1997年開業の長野新幹線のことだとしか思うのが普通だけど、ひょっとして凡ミス?)
先に観ていた前述の2作品との共通点の1つが、
「主人公がマイペース」
だということ。
ところが、相違点もあって、
2作品は「主人公が周りの人々に良い影響を与えていく」
というストーリーで、その人間関係が面白かったのだが、
この作品ではマイペースの度合いがより強いせいか、
周りの人は上手く調子を合わせてながら関係を持ち続けている感じで、
ほのぼのとはしているが、成長などの変化はほとんどない。
こうなると、沖山監督が自作の主人公のキャラやストーリーに盛り込んでいるのは、
人間関係ではなく、
「無垢なキャラの人間」なのかな?と思う。
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自宅の庭の虫や小動物を見ている事が多くて日課になっている主人公を描く事は、
当人にとってはものすごく意味があっても、
表面的あるいは客観的には無意味とも言えるというギャップがあり、
それが埋まりそうになく、気持ち的に作品との距離が遠い。
冒頭に映されたケージの中のフクロウが、
ラストシーンで成長している事以外は、
そのフクロウについては何も描かれていない事に代表されるように、
様々な物が描かれているが、それらを描くことの意図が
「意味ありげ」止まりにしか感じられないような、
具体性に欠ける描き方だったからだと思う。