映画の冒頭、ずっとカメラは車の運転席の目の前の風景を映し続ける。誰が運転していて、どこへ何の目的で向かっているのか分からない主観的な画。劇中、何度もこのようなショットが登場するが、行く先の見えない手探りの主観に支配されている本作には、目を逸らす暇もないほど興味を惹きつけられた。
車に乗る男が田舎町のパン屋に到着すると、そこでは葬式が行われている。パン屋の亭主が亡くなったようだ。遺族と男は顔見知りで、もしかしたら、男はこのパン屋で修行した過去があったのかも。そこで何故か帰らずパン屋に居座る男。その男の意図を掴めずにいる未亡人、パン屋の息子たち一家、その隣人たちの様子を、何も確かな確信のないまま見続ける100分間。
どうやら男は亡くなったパン屋を愛していたのかも。もしかしたら、彼はゲイなのかもしれない。が、自らが亡くなった亭主になりかわり未亡人と一緒になりたいのかも。まるでパトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』の世界だが、それすらもあり得る。不確かな掴みどころのない男だが、性別を越えた愛を求める異邦人のように思えてくる。男を助ける神父の行動だって、もちろん肉欲的なものもあったかもしれないが、聖職者の追求する愛の実践だったのかも。
今回、紹介されたアラン・ギロディ監督の3作品いずれも性別や人種に囚われない自由かつ赤裸々すぎる描写で共通している。この『ミゼリコルディア』は特にバランス感覚が絶妙で、一応、事件が起こり、あまりに杜撰な後始末をする謎の男の危うすぎる行動が滑稽すぎて笑える。謎で不確かだからこそ好奇心を刺激され、マジメに見れば見るほど笑えてくる。とても面白いのだが、何が面白いのかを的確な言葉にするのが難しい。
ところで全編にわたって謎の男の主観で描かれる本作。彼が盗み聞きしてしまう周囲の本音や突然、彼を突き動かす欲の衝動などで、彼を客観的に見せつつも、やはり男の意思が掴めない。サスペンスとしては、男の危うさにハラハラさせられるし、神父との共謀だって杜撰でいつ露見するか分からない。事件にオチがつかないのでサスペンスとしては弱い。そして何より未亡人との関係がどうなるのだろうか。そこのドラマも絶妙に肝心なところをスカし煙に巻くかのよう。これがアラン・ギロディの作劇の妙なのだろうが、やはり一見とっつきにくい。今回は無理やり「愛」ということで映画にまとまりを感じられたが、もっと簡潔に、欲望に素直な男は気味が悪い、という映画なのかもしれない。
端正で美しい映画とは思わない。だが、この映画が非常に面白く何度も観れるような傑作だとは思う。
アラン・ギロディ。特異な映画人がいたもんだ、と嘆息した。