【虐げられた女を一貫して描いた世界的な巨匠】東京都に生まれる。小学校を出た後、浴衣の模様下絵を描く図案屋に奉公し、洋画研究所で洋画を学ぶ。1920年、日活向島撮影所に助監督として入社。23年「愛に甦へる日」で監督デビューし、5作目の「敗残の歌は悲し」で注目を浴びる。生来の新しもの好きで、ドイツ表現主義映画を模倣した「血と霊」(23)や、当時の左翼イデオロギーに染まり、〈傾向映画〉の流行にのった「都会交響曲」(29)を撮るが、一方で、「紙人形春の囁き」「狂恋の女師匠」(ともに26年)では下町の人情や情緒を下敷きに女の情怨を描いて本領を発揮する。泉鏡花原作、入江たか子主演の「滝の白糸」(33)は、その下町情緒とフェミニズムが最も美しい完成をみせたサイレント時代の代表作である。【ワンシーン・ワンショットの長回しの技法】34年、永田雅一が日活に反旗をひるがえして独立した第一映画社に参加し、山田五十鈴主演で「折鶴お千」(35)、36年には依田義賢脚本、山田五十鈴主演で「浪なにわえれじい華悲歌」「祇園の姉妹」を発表し、日本のトーキーが到達した自然主義リアリズムの頂点と絶賛された。同年、第一映画社の解散に伴い、新興キネマ東京撮影所に入社、「愛怨峡」(37)を撮る。39年、松竹下加茂撮影所に迎えられて撮った「残菊物語」は、一見、献身と忍従とみえながらも、自我を貫いた女の一生を描いた傑作で、この作品から溝口の際立った技法であるワンシーン・ワンショットの長回しが用いられるようになった。さらに、同作と田中絹代が初めて主演した「浪花女」(40)、「芸道一代男」(41)は、〈芸道三部作〉と呼ばれ、高く評価されている。敗戦後は、公私共に親密だった田中絹代を主演に、戦後民主主義の思潮を盛り込んだ「女性の勝利」(46)、「わが恋は燃えぬ」(49)などを発表するが、混迷の時期が長く続いた。溝口が壮麗な円熟期を迎えるのは「西鶴一代女」(52)からで、この作品はヴェネチア映画祭で国際賞を受賞。以後、大映で撮った「雨月物語」(53)、「山椒大夫」(54)と同映画祭での受賞が続き、溝口の世界的な名声は一挙に高まった。とくに「雨月物語」をはじめとするカメラマン宮川一夫との名コンビが創造した、墨絵を思わせる独特の日本的な幽玄美あふれる神秘的な映像は、世界中の映画ファンを魅了した。女優を育てる名人であった溝口健二は、田中絹代以外にも「雪夫人絵図」(50)「祇園囃子」(53)の木暮実千代、「雨月物語」「楊貴妃」(55)「赤線地帯」(56)の京マチ子、「祇園囃子」「赤線地帯」の若尾文子からそれぞれの妖艶な魅力を最大限に引き出した。海外で溝口をいち早く評価したのはフランスのヌーヴェル・ヴァーグの監督たちで、とくにジャン=リュック・ゴダールやジャック・リヴェットは、自作に溝口作品の名場面を引用し、尊敬を込めたオマージュを捧げている。