村岡伊平治が大志を抱いて故郷・島原を捨ててから早や八年が経っていた。伊平治が長太、源吉と香港の港に降り立ったときの格好は髪は長くボサボサ、服はボロボロでまるでルンペン。もちろん金もなければ家もない。しかたなく大日本帝国領事館へ駆け込んだ。明治三十五年正月のことである。伊平治はそこで上原大尉から満州密偵としての役をもらい、シベリア大雪原へ向かった。やがて彼は奉天の女郎屋でトメという島原の女と出会い、幼馴染みのしほがシンガポールに奉公に出ていることを知った。香港へ戻った伊平治は越前屋の朝長という知り合いを訪ねたが、なんとしほは朝長の女房となっていた。朝長がシンガポールで身受けしてきたのだ。愛しいしほを買い戻した伊平治は、香港の海賊に捕まっている日本人の娘たちを助け出したのが縁で女衒を始めることになった。オナゴの貿易は国のためと張り切る伊平治は、南洋の島々に渡っては商売に励んだ。一方、しほはかつて海賊で今は英領マラヤのポートセッテンハムに力をもつ王に掛け合い、この地に女郎屋を開くことを許可させた。明治三十七年二月、対露宣戦布告の頃には伊平治は多くの子分を抱え、商売も繁盛、四つの娼館を経営するまでになった。明治四十五年、夏、伊平治は天皇の逝去に際し、切腹を試みたか失敗した。すぐに立ち直った伊平治は再び仕事に精を出すが、次第に反日感情が強くなり日本娼館も苦しい立場に立たされた。大正八年六月の廃娼制度の誕生は伊平治に決定的な打撃を与えた。世の中は大きく変わろうとしていた。多くの女たちは日本に帰ることを希望し、しほは王と愛し合うようになり伊平治の元を去った。このような時制に、王は伊平治の持つ娼館のすべてとしほを二十万ドルで手に入れたのである。昭和十六年十二月、大平洋戦争が始まる頃、伊平治もすでに七十歳に達していたが、彼の女衒根性はそう簡単に消えるものではなかった。日の丸を先頭に上陸してくる日本軍の隊列に向かって伊平治は「兵隊しゃーん、オナゴのことは俺に任しんしゃーい!」と叫んだのである。