寛保・弘化の利根川大洪水をはじめ、度重なる水害に鹿島の農漁民は致命的な打撃をうけていた。水戸の郷士中館広之助はその難を救おうと、原住民を集め治水工事に励んだが、大利根の脅威は彼の雄図を打ち砕き、中館は自殺。人々は彼を狂人と呼んだ。それから数百年。荒凉たる大砂丘、吹きすさぶ砂の嵐、貧しく崩れ落ちそうな民家、不毛の鹿島は変ることがなかった。が、近年に至り、理想家の茨城県知事岩下三雄を中心に、鹿島開発の気運が盛り上った。岩下とその下に働く開発職員で熱血漢植松一也の必死の奔走も、中央には聞き入れられず、一時は無為に帰すとも思われたが、ふたりの熱意は建設省の辣腕家野田鋭介を次第に動かした。待望の国家予算が計上され、鹿島開発がスタートしたが農漁民の土地への執着は、開発工事を進めるには大きな壁となった。精力的に動きまわる植松の前にも、住民の抵抗がおき、植松の心をとらえた気の強い女教師添島美奈子もそうした住民のひとりだった。一方岩下知事は開発の第一段階としてS金属の誘致を図ったが、S金属の会長は岩下に同調しながらも、鹿島進出は自社の社運をかけるものであるとし、試験堤を要求しこれを完成させた。が、台風は容赦なく試験堤を襲い、叩き壊した。しかし、S金属はこの一見無謀とも思える開発事業に調印し、やがて野田が茨城県開発部長として乗り込んで来た。実務者野田は、理想家肌の岩下、植松とぶつかりながらも、着々と開発事業を押し、鹿島町長権藤の抵抗もものともせず、困難な土地買収をやり遂げた。鹿島コンビナートは、次第にその巨大な姿を現わしていったが、植松が頭に描いた“緑の楽園”とはあまりにもかけ離れたものだった。農業団地に林立するバー、スナック、パチンコ屋、そこに群がる人々の間に乱れ飛ぶ札束。赤々と燃えるコンビナート。造りあげた人間の意志には関係なく日増しに膨らんでいく、得体の知れない化物。炎が、傷ついた植松の五体を赤く染める。やさしく寄り添う美奈子。植松の怒りをよそに、彼らの手を離れて大きく歩み出すコンビナート。人工港が美しく、その彼方に青い鹿島灘が拡がっていた。