【スプラッタ・ホラー・ブームの立役者から国民的映画の監督に】アメリカ、ミシガン州ロイヤル・オーク出身。少年時代はコミックと映画に夢中で、兄アイヴァン(後に脚本家)、弟テッド(後に俳優)とともに8ミリカメラで映画を撮って成長する。ミシガン大学で文学と人類学を専攻するが、中退。20歳のときに友人のブルース・キャンベル、ロバート・G・タパートとルネッサンス・ピクチャーズを設立し、旺盛に自主映画を製作する。この時期に作った“Within the Woods”を発展させた長編映画「死霊のはらわた」(81・全米一般公開は83年)で、商業監督デビュー。残酷なホラー描写とオフビートな笑いを共存させたこの作品は若者から熱狂的に支持され、80年代に一大ブームを巻き起こすスプラッタ・ホラー。金字塔的作品となり、ライミ自身も大きく注目を浴びる。この頃に、やはり自主映画制作を目指していた無名時代のコーエン兄弟と知り合い、意気投合。ライミ2作目の「XYZ マーダーズ」(85)は彼らと共同で脚本を執筆。その後もコーエン兄弟の監督作「ミラーズ・クロッシング」に俳優として出演し、「未来は今」(94)では脚本を提供したりと、交流関係を築く。1990年、原作・脚本も手がけた「ダークマン」でハリウッドに進出。続いて、自主映画出身監督に理解の深い大物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスから資金を受けて「キャプテン・スーパーマーケット」(93)を発表。同作で「死霊のはらわた」シリーズを完結させ、アクション映画(「ハード・ターゲット」「タイムコップ」)や、テレビドラマの製作総指揮を手がけるようになる。【アメコミ映画で原点に回帰】98年の「シンプル・プラン」より、それまでのマニアックな芸風から、非ホラー非スプラッタの映画監督へと変化のきざしをみせはじめ、「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」(99)では人生や恋に悩む人間ドラマにも挑戦。監督として幅の広さを見せるも、初期の破壊力が徐々に薄まりつつあったこの頃、ライミに大きなチャンスが訪れる。少年時代から愛読してきた国民的人気コミック『スパイダーマン』の実写映画化が決定し、多くの候補者を退けてその監督に抜擢。完成した「スパイダーマン」(02)は空前の大ヒットを記録し、続く「スパイダーマン2」(04)、「スパイダーマン3」(07)も、興行的にも批評的にも大成功を収め、一躍ハリウッドを代表するヒットメイカーへと躍り出た。また、日本のホラー映画「呪怨」に惚れこみ、ハリウッド・リメイク版に監督の清水崇を招聘して大ヒットに導くなど、プロデューサーとしてのセンスの良さも発揮している。