【“世界のクロサワ”の愛弟子から21世紀の名匠へ】茨城県水戸市の生まれ。写真家を志し、東京写真短期大学(現・東京工芸大学)写真技術科を経て、早稲田大学に入学。卒論に黒澤明の「赤ひげ」(65)を取り上げ、映画の世界に興味を抱く。卒業後の1970年、黒澤、木下惠介、市川崑、小林正樹の4人により組織された“四騎の会”所属となり、黒澤に師事。71年、黒澤監修のテレビ用ドキュメンタリー『馬の詩』に助監督として参加する。73年、「デルス・ウザーラ」の撮影で黒澤がソ連に赴き不在の間、市川、中平康、吉村公三郎らの助監督、スチールマンなどをつとめる。80年の「影武者」以降の黒澤作品すべてに脚本準備の段階から助監督として参加。その傍ら、『光と影(ポルトガルの騎馬闘牛)』(85)、『陽光のミャンマー紀行』(97)などのテレビドキュメンタリーを監督した。2000年、山本周五郎原作による黒澤の遺稿を、黒澤組のスタッフを結集して映画化した「雨あがる」で、劇場映画デビュー。山路ふみ子映画賞、日本アカデミー賞最優秀作品賞、ヴェネチア国際映画祭・緑の獅子賞など、国内外で高い評価を受ける。続く「阿弥陀堂だより」(02)では、オールロケした長野県飯山の美しい四季を追いながら、現代社会の中で失われつつある大切なものを見つめた。小川洋子の同名ベストセラーを映画化した「博士の愛した数式」(06)では、柔らかな文体を静謐な映像へと結実。08年、大岡昇平の『ながい旅』が原作の「明日への遺言」はドキュメンタリーばりの長廻しによる撮影を敢行し、裁く側、裁かれる側、その家族をも等しく映し出すことで戦争という“悪”をあぶり出す強いメッセージを放つ。【自然・人間へ慎ましい姿勢】撮影所システム崩壊時に映画界入りし、黄金期の名匠のもとで腕を磨いた正統派の助監督出身者。恩師・黒澤亡きあと、「雨あがる」で“遅咲きの新人監督”としてデビューした小泉であるが、その後も、心より撮りたい素材や出逢いたくなる人物だけを厳選し、マイペースで作品を発表している。黒澤から綿密な脚本作りを学びつつ、自ら脚本も手がけ、「阿弥陀堂だより」「博士の愛した数式」では、原作のエッセンスはそのままに、“師匠と弟子”というモチーフを掘り下げて脚色。「阿弥陀堂だより」には、主人公の恩師がガンに侵されながらも余命をあるがままに生きようとする印象的なエピソードが加えられ、「博士の愛した数式」は、博士の家政婦の語りで進む原作に対し、彼女の息子が中学校の数学教師となったという原作の結末を膨らませて、彼の初々しい授業とともに、博士との思い出が綴られる。自然やその一部である人間への謙虚で慎ましい姿勢、俳優から余計なものを削ぎ落としていく演出術は、黒澤とは似て非なる小泉独特のものであるが、ふたりの関係性を作中に忍ばせ、師にオマージュを捧げているように見えるのも興味深い。