東京府荏原郡矢口村(現・東京都大田区)の生まれ。本名・中川慶子。日本橋で羅紗地の輸入業を営む父・卯之助、母・よしの三男三女の末っ子。3歳で日本舞踊水木流名取・水木歌橘の弟子になり、6歳になると松竹スター栗島すみ子(水木紅仙)の稽古場へ通う。小学5年生の34 年1月、東京へ進出した宝塚歌劇団常設劇場・東京宝塚劇場のこけら落とし公演『花詩集』に魅了され、入団するきっかけとなる。成蹊高等女学校から39 年4月、競争率10 倍の難関を突破して宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)へ。同期に久慈あさみ、南悠子ら。41 年4月の月組公演で初舞台。同年6月、花組に異動し演劇研究会第1回公演『制服の処女』の舞台に立つ。第二次世界大戦後の46 年に再開された宝塚で再び月組。『ローズ・マリー』で女優復帰し、以来、娘役主演スターとして認められ、久慈あさみとのコンビが人気となる。50 年3月、宝塚を退団。4月には松竹に入社する。第1回作品は渋谷実監督の風刺喜劇「てんやわんや」で、彼女はテンポの速い演技と小気味良いセリフに乗せて評判を得る。この1作で“ アプレゲール女優” と呼ばれ、ブルーリボン賞の演技賞を受賞。翌年には「自由学校」51 に出る。ともに獅子文六原作。映画界初の2社競作となり、大映版は京マチ子。軍配は淡島に上がったとの。松竹時代の初期は渋谷を中心に、小津安二郎「麦秋」51、「早春」56 や、木下恵介「善魔」51、「カルメン純情す」52 はじめ名匠・巨匠に起用される。大庭秀雄、中村登、川島雄三ら大船、大曽根辰夫(のち辰保)ら京都といった顔ぶれ。大庭とは「君の名は」三部作、中村登とは55 年に初めてカラー映画となった「修禅寺物語」「絵島生島」に出た。これには宝塚時代から縁のあったマネージャー・垣内田鶴の支えがあった。松竹との契約時「いろんな監督と仕事ができる」という一項目を認めさせたからだ。息子・健二(10 年死去)も同じ仕事に。55 年には、初の他社出演となる「夫婦善哉」と出会う。さらに生涯で一番共演が多い森繁久彌とのコンビ誕生作。ブルーリボン賞の主演女優・男優賞を独占した。これ以降、「負ケラレマセン勝ツマデハ」「駅前旅館」58、「花のれん」「男性飼育法」59、「珍品堂主人」60、「台所太平記」「新・夫婦善哉」63 では、いずれも森繁とのコンビで、気丈で芯の強いお色気もある女性を見事に演じる。名演技を見せたのは58 年。五所平之助監督の松竹京都「螢火」。幕末事件史のひとつ、寺田屋騒動の舞台となった伏見の船宿の女将お登勢を演じた。もう一作は成瀬巳喜男監督「鰯雲」。こちらは一転、地味な農婦を真摯に演じた。この年、毎日映画コンクール女優主演賞を初受賞。61 年より松竹を離れフリー。森繁主演「駅前」シリーズを中心に活躍し、舞台でも森繁との共演で当たり役の『夫婦善哉』を大阪・新歌舞伎座で披露した。ふたりで結成した『自由劇団』旗揚げだった。のちに舞台での共演最多となる長谷川一夫とは東宝歌舞伎『十七夜』『初姿吉良の仁吉』『沓掛時次郎』などに出演。テレビ出演も61 年からで、NHK 大河ドラマ第1作『花の生涯』では映画でも演じた村山たかを熱演。映画出演は70 年代後半、80 年代から90年代は、森繁芸能生活40 周年記念の「喜劇百点満点」76や木下恵介監督の「この子を残して」83、相米慎二監督「夏の庭/ The Friends」94 などと少なく、毎年多くの舞台出演をこなした。森繁、長谷川のほか、『反逆児』『雪月忠臣蔵』などで萬屋錦之介、『長七郎江戸日記』などで里見浩太朗、『暴れん坊将軍』などで松平健、『香華』『紅梅館おとせ』などで山田五十鈴、『細雪』で新珠三千代、佐久間良子、桜田淳子らと共演。09 年には『アデュー東京塚劇場』に、春日野八千代と日本舞踊を舞い、旧東京宝塚劇場に自ら別れを告げた。88 年に紫綬褒章、95 年に勲四等宝冠章を受章。