太陽を盗んだ男(1979)
「原爆は誰にでも作れる。この太陽の力を君たちの手に取り戻したとき、君たちの世界は変わる」
8月6日の鑑賞。敢えて攻めた。
私事だが幼稚園〜小学校1年生の間、僕は父の仕事の関係で広島に住んでいた。平和祈念式典にも参加したし、原爆資料館も見学した。25年も前のことだ。
昨今、「残酷すぎる」という理解しがたい理由で「はだしのゲン」が学校の図書館から一掃され、同じ理由で原爆資料館の展示も変更されたらしい。かつての展示を知る者からすると「ご冗談を」というレベルでマイルドになったそうだ。挙げ句の果てには昨今の「バービー」騒動。世界初の原爆投下という惨禍から78年が経過し、残念ながら記憶も記録も薄れていってしまっていると言わざるを得ない。
そんなもんで、今年の平和祈念式典も例年通り観たが、悲しいことに平和へのメッセージが全く中身のない言葉の羅列へと成り下がってしまっていた。「このままではダメだ」と思い、敢えて毒リンゴを口にした。
本作を初めて知ったのは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」(2009)でBGMが引用されていたことだった。以来、あらましは知っていて観よう観ようと思っていたが踏ん切りがつかないままだった。
蓋を開けてみれば、まさにパンドラの匣を開けたような映画で、社会人レベルは平均以下の中学理科教師が、並外れた行動力で東海村の原子力施設からプルトニウム239を盗み、自力で原爆を製造してしまう過程での人間の変貌がありありと描かれていた。「狂気」以外の何と表現するべきか?コイツは「時計じかけのオレンジ」(1971)のアレックスと同じで、特に社会に対して主張があったわけでもなく、ただ純粋に自分の興味関心に愚直なまでに従っただけなのだ。それが救いようのない展開を生み出してしまった。文明や科学はいつだってそうだ。快適な世界を目指して歴代の最高の頭脳が結集し、最後は殺しの道具に使われるのだ。
最近何かと話題のオッペンハイマー博士は生前、現実世界に使うことのできない兵器を見せて、戦争を無意味にしようと考えていたが、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしても、新兵器を今までの通常兵器と同じように扱ってしまったことに絶望したらしい。
感想の最後は、以下の言葉で締めくくる。
「我は死神なり。世界の破壊者なり」〜『バガヴァッド・ギーター』第11章32節より