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フランソワ・オゾンが奇抜な演出を排して、かなりオーソドックスな撮り方をしているのが印象的。それはカトリック教会の児童への性的虐待問題が、それほどシリアスなのだという意思表示でもあるだろう。衝撃的なのは、被害者の訴えに対し、教会の担当者が親身に話を聞いて神父が素直に謝罪するものの、それ以上の具体的な責任を教会側が何一つとろうとしないところ。つまり被害者をなだめて落ち着かせる以上のことは何もしたがらないのだ。よくぞ、世にこの悪行を知らしめた。
老齢で視力をほぼ失うという深刻な事態に陥った主人公の物語としては、少々都合の良過ぎる展開に疑問が残ってしまう。とはいえ、“陽気な港”を意味する、監督の出生地ポルト・アレグレのおおらかな雰囲気には、希望を抱かせる穏やかな美しさがあるし、そこで表現される、人生に対する肩の力を抜いた楽観的な姿勢には大共感できる。けして観光的には撮られない街の風景と、ラストを彩るカエターノ・ヴェローゾの名曲が、さらにリアリティと豊かな味わいを本作に加えている。
海洋パニック映画というジャンルものとしての質を堅持しつつ、さらに意外な展開を用意した前作。今回の続篇では、マヤ文明やギリシャ神話の迷宮伝説を要素に加え、閉塞感と不気味な暗闇を美的に描くというアーティスティックな内容へと、さらに飛躍的な変貌を遂げていて驚かされた。前作を大きく上回った独創性と先進性を、ジャンル映画のなかでまとめあげた手腕や実験性については称賛するほかないが、生存するための戦略性の描写や、クライマックスの衝撃は前作に及ばなかった。
今回が初めての長篇映画だという監督は、テレビ業界で働いていたらしく、本作は演出や構成含め、教育的なテレビ番組をそのまま映画として提出したようなものになっている。それ自体は否定することではないものの、飽きさせないよう次々に短い場面が移り変わるテレビ演出は、暗闇でスクリーンを見つめる観客にとって過剰なショーアップだと感じられる。情報量は多いためスペイン美術に興味を持つ入口になるかもしれないが、美術史にとってとくに新しい知見があるわけではない。
聖職者による性的虐待行為の報道を目にするようになったのは2000年代に入ってからであり、その後はしばしば映画でも描かれてきた。F・オゾンがこれを題材にしたとは意外に思えたものの、見終わって納得。加害者を告発するための、被害者の一致団結を描くものではない。おぞましい記憶に苦しむ3人を、被害者としてひと括りにしない。事件から現在に至る各人の心情・事情と向き合って群像劇に仕立てているのだ。要は監督の視点。得意とする作風をもって描いた問題作である。
ウルグアイとアルゼンチンの軍事政権を逃れてブラジルで暮らす老主人公とその隣人に、孫世代のブラジル娘が加わり、とてもいい話が展開。ディテールの積み重ねの上手さが、主題にぴったり寄り添う。視力を失いつつある主人公は、話の鍵になる手紙が読めない。それに加え、祖国の言語スペイン語とブラジルの言語ポルトガル語との、言葉の問題も。全篇に散りばめられた高齢者の切実な状況とよどみないユーモアに和み、未来を手に入れる3人に安堵する一方、日本の厳しい現実がよぎる。
ガラス底の観光船でサメの見学ツアーに出る予定の姉妹が、突然、友達と4人でダイビングをすることに。ここまでの展開は、学校でヒロインが苛められっ子であること、姉妹の仲が良くないこと等を手際よく紹介して、ドラマの入り方としては合格点。が、その後となると、オマケ的なエピローグに至るまで、一度も外のシーンはなくすべて水中。危険にさらされて姉妹に絆が芽生えるというストーリーは一応あるが、酸素の残量を気にしながら薄暗い水中でもがく彼女たちの映像に息苦しくなる。
美しい風景描写とジェレミー・アイアンズの口跡の整った語りに導かれて館内へ入れば、スペインの歴史がぎっしり。ナビゲーターが実力俳優であることと相まって、さながら重厚な「語り芝居」のような、ドラマ性に彩られている。カメラワークも、例えば展示作品を適切な画角で定点から撮るのではなく、動きのある近接撮影で細部までを捉える。これがドラマ性に寄与。せっかく素晴らしい画を撮っているので、作品に日本語字幕が被るのがもったいない。重箱の隅をつつくようですが。
フランソワ・オゾン監督作であることを疑ってしまうようなオーソドックスな演出から、事件を世に問うことを第一義としていることが窺える力強い実録映画ではあるのだが、信仰者である被害者の怒りと拮抗するはずの「赦し」には深く踏み込まず、彼らを多角的に描きながらも結局は「変態神父許すまじ」の視点に終始してしまっている作りには物足りなさを覚えるし、潔く罪を認めながらも罰を拒む神父側をもう少し掘り下げて神と人間の対立構図を際立たせてほしかったという思いが残る。
派手な展開は皆無ながら最後には歳をとるのも悪くないと思わせてくれる素敵な小話で、頑固ジイさんと小悪魔娘との会話には滋味深さを感じるし、殆どアパート内で進む物語にまぶたが重くなる頃合いで夜の街に繰り出すシーンは解放感に溢れており、そこからは一気に面白くなるのだが、いっけん端正で堅実な演出は、人物の頭が切れた構図、主張強めな粒立った音楽の差し込み方、次のシーンの音を先行させる手法の濫用など微妙にクセがあり、映画のリズムを摑むまで少し時間がかかった。
主人公の家庭環境に問題アリというサメ映画あるあるな冒頭で話の流れとオチがおおかた予想できてしまう親切設計なうえ、目が白くて体中傷だらけな盲目深海ザメの不気味なヴィジュアルは最高で、マヤ遺跡とかあんま関係ないけど終盤のしつこいくらいの盛り上がりは素晴らしく、頭が5つあるサメや空飛ぶサメが出てくるトンチキサメ映画と違い(海だけど)地に足の着いた清く正しいサメ映画である本作が語り掛けてくるのは劇中の父親が娘に言う台詞そのものだ――「サメはいいぞ!」。
もともとは王族が自分たちの趣味、あるいは権力やセンスの良さを誇示するため金にあかせてコレクションした絵画であるがゆえにナショナリズムが介在しない多様性が生まれ、それらが長い年月を経て万人のものになった、というプラド美術館の皮肉めいた歴史を数々のバロック絵画と共に語ってゆくこの映画、吹き替え版で観たことも相まってNHKスペシャルのような雰囲気であり、カタログ的な観やすさと引き換えに映画としての色気を失っている印象も受けるが、大変勉強になる内容だ。