パスワードを忘れた方はこちら
※各情報を公開しているユーザーの方のみ検索可能です。
メールアドレスをご入力ください。 入力されたメールアドレス宛にパスワードの再設定のお知らせメールが送信されます。
パスワードを再設定いただくためのお知らせメールをお送りしております。
メールをご覧いただきましてパスワードの再設定を行ってください。 本設定は72時間以内にお願い致します。
戻る
公開年:
現在の文字数:0文字
氏名(任意)
主人公の友人があれしきのことで18年も懲役刑を食らうのはヘンだ。ひょっとすると物語設定が変更されたのではないか。例えば邦画「淵に立つ」のような血なまぐさい何か事情があったのでは? その後の虐待養父が出てこないのも不自然だし、そう考えると説明がつくのだが。主人公があそこまで過去を隠したがり、友人に負い目を感じるのもそのせいじゃないのか。また友人がドラゴに行ったのは許されない犯罪で、あれを水に流す主人公も同罪である。生ぬるいハッピー映画で呆れる。
中国製CG映画で技術的には完璧。というのもこの国にはもともと墨絵を自在に動かす、というとんでもないアニメの伝統があり(もちろんCG以前から)、その蓄積はクレジット部から明白。また日本ではそれほど読まれていないもののマンガ産業もあり、テクニックは十分。なので画面を鑑賞するだけで感動する。にも拘らず星が伸びないのは、ここで実現されている曲芸色々はアニメなら普通にやれるに決まっているからだ。これを実写でやってしまう香港映画は凄かった、とつくづく思う。
レイプ、DV、性同一性問題などの重いテーマをまとめ上げているのは評価したい。撮影も美術も編集も素晴らしい。最も凄いのは思いがけない名曲が流れるシーンで、ここには完璧にやられた。必見。問題はいくら特殊な宗教コミュニティ内部の話だからといって、ディスカッションがあまりに陳腐な内容に終始することだ。というか、皆さん感情的なだけでディスカッションになっていない。スタッフと俳優が自らの映画的使命に酔ってしまっているので(確かに立派なことだが)観客は辛い。
監督はウォルシュの「白熱」を半端に見て、何か間違った教えをそこから受け取ったらしく、生き方のモラルを欠いた暴力団映画を作ってしまった。性別がどうこうという前に人間として主人公はスカなのよ。また構成自体は「白熱」より「死の谷」に近い印象。色々見ているのだろうが実になってないな。基本「悪いことして何が悪い」というコンセプトの映画を上出来に仕上げるには、もっと周到な説話上の工夫とか行動の必然性が必要なのだろう。最後の強奪計画も犯罪として成立しない気が。
父に憧れボクシングの魅力に嵌る聾者の娘と過去の罪で服役したのち出所しボクシングで再起を賭けようとする男が一時代を築いたマイケル・B・ジョーダンの傍らに並置され、社会的弱者がいかに闘いうるのかのほうに光を当てるのかと思いきや、鏡に向かって王者は誰かと問いかける描写が象徴するように、最終的には男たちのナルシシズムとマチズモに回帰してゆく。打撃に伴う過剰な鈍い音、スローモーションによって遅延されるアクションが彼らにとっての一発一発の重みを背負う。
オープニングシーンで筆によるデッサン風の手描きアニメーションから写実的なCGアニメーションへと切り替わり、猫の毛並みの繊細さにまず驚かされながら映画の世界観へといざなわれてゆく。陽の光の射し込みや水面の揺蕩い、暖色の葉っぱに覆われた森の色彩などはあまりに美しい。経済的階級の下にいる少年を主人公に据え、獅子舞競技で一旗揚げようとする物語はオーソドックスではあるかもしれないが、つまるところこの映画は画面の視覚的快楽に大部分が懸けられているのだろう。
ほとんどワンシーンの会話劇といってもよい本作において、サラ・ポーリーはその舞台である納屋の空間を女性たちが立たされている境遇に合わせて閉塞的に見せるのでなく、寧ろ広がりを持つよう演出している。本作は性暴力やハラスメントを扱う女性作家による近年の「プロミシング・ヤング・ウーマン」「69歳」「SHE SAID/シー・セッド」「アシスタント」などと同様、直接的な暴力描写を扇情的に差し込むのではなく、女性たちの語りそのものに注視させる作劇法の作品群に連なる。
開巻でガソリンを男にせがむ大胆不敵な主人公ジュリアの姿がアニエス・ヴァルダ「冬の旅」のモナを彷彿とさせる。本作はジュリアがバイカーたちのボスの女性パートナーと親密になる終盤にかけて加速するように魅力を増す。ジュリアの曖昧なジェンダーやセクシュアリティを暴力的な展開で流露させたり自覚させたりする展開には陥らず、あくまでも未決定のまま。監督自身が身体を最も主要な主題の一つと言う通り、ラストの「身体からの逸脱」がいかなる意味を持ちうるかが本作の肝。
「ロッキー」シリーズと言えばボクシングのリアリズム云々というよりもトレーニング・シーケンスの終わりに訪れるカタルシスがすべてだ。「クリード」シリーズはそこへ新たに黒人音楽の快楽という柱を導入することに成功したと言えるだろう。本作も、ともするとただの八つ当たりの連鎖に見えなくもなく、なかばでバラバラと瓦解していきそうになる稚拙な物語をその二本柱がどうにかつなぎとめている。ボクシングがカンフーアクションっぽくリズムで演出されている点にも現代性が覗く。
弱虫、痩せ、太っちょの三人組が「ミスター・ミヤギ」的な師匠についてマッチョないじめっ子軍団と獅子舞大会で対決するというお話。壁全体がグラフィティで満たされている空間などに中国の変化を覚える。近年のCGは柔らかな風のそよぎはもちろんひとつの街を再現することも難なくできるようになっていて、翻って実写の大作はほとんどのショットがCG加工で塗りつぶされている。となると、撮影スタジオ機能もとい映画制作自体が一台のパッドの中で完結する日も近いのだろう。
タイトルの通りワン・シチュエーションの会話劇だ。小気味の良いポリフォニックな言葉の往来は時に思想が前景化しすぎるが、それを聞かせるための工夫は充分になされていて、隅々まで気配りの行き届いた強いカットはもちろん、登場する俳優たちがいずれも素晴らしい。そもそもルーニー・マーラとベン・ウィショーの共演を見たくない映画ファンなどいるだろうか。「逃げるのではなく離れる」では、仲間もおらず外部もない場所にたたずむ女性たちはどうしたら良いのか考えていた。
ダルデンヌ風の演出で下層社会に迫るいつもの映画祭映画かよとあなどっていたら後半なんだかアメリカン・インディーズっぽくなるという不思議な作品。それはおそらくヒロインの解放に合わせてフレーム感も話法も編集のリズムも変わっていくからなのだろう。冴えない音楽の連打の果てにようやくフレンチドリルが鳴りはじめ、なぜだかXXXテンタシオンが流れるくだりは思わず破顔してしまったが、乗り物が主題の映画なのだからもう少し乗り物の撮り方を工夫しても良かったと思う。