終戦の混乱期であった昭和22年4月19日夜、植田正之は、仲間の田上と共謀し、外国人の闇屋とその女を殺害、モルヒネを強奪した。やがて二カ月後に逮捕された植田は懲役二十年の刑を受け、広島刑務所に入所した。翌23年4月13日、脱獄に成功した植田は、神戸、妻昌代のいる大阪に潜伏していたが、同年5月3日、関西映劇で観劇中に発見され、逮捕された。再び広刑に戻された植田は、脱走罪が加算され、計二十一年三カ月となった。同年9月、植田は服役中の岡本組々長・岡本清次郎の協力を得て、房仲間の末永と小島の三人で再び脱獄。そして、妹の和子がいる郷里四国の松山・草鹿村に、山本清と名乗って潜伏した。ここで植田は、牛の密殺グループの親分となって妹一家を養っていたが、24年4月、女郎屋で喧嘩ざたとなり、警察に捕われた植田は指紋から身元が割れてしまった。翌5月、広刑に戻された植田の刑は、二十二年七カ月となった。既に捕われていた末永が第八工場で、名古屋の親分・前戸に虐待されている事を知った植田は、前戸にかけ合うが、話がもつれ前戸を殺してしまった。この事件で八年の刑が加算され、計三十年七カ月となった。さらに前戸の屈強な舎弟吉原にも勝負を挑まれ、植田は風呂の中で吉原を不意討ちで殺害してしまった。これで刑は七年増して三十七年七カ月。この殺人で広刑の地獄房に三カ月間投獄された植田は、25年3月にやっと地獄房から出されたが、保安課長の堂本に狂人呼ばわりされ逆上し、机上にあったナイフで堂本に斬りつけた。この殺人未遂で刑はさらに四年加算され、計四十一年七カ月になった。同年8月、この事件の裁判の時、植田は突発的に逃亡、その足で草鹿村に立ち寄り、久々に妹と楽しい一刻を過ごした。しかし、牛の密殺仲間が警察に密告したために、警官隊に包囲されてしまった。格闘の末必死に包囲網を突破した植田は、生への執念と、あくなき自由を求めて歩き始めるのだった……。