関東大震災の直後。帝大学生古川は、累々たる瓦磔の中に上野・五重塔の雄姿を見て、祖先が残した耐震技術の偉大さを知った。それから四十年、その時の感動は、古川東大教授を、耐震建築の世界的権威にまで育てあげていた。鹿島建設会長は、日本の都市問題解決が超高層ビルの建設以外にないと信じ、彼に生涯の夢を託した。古川は佐伯構造設計課長らと共に、柔構造超高層ビルの設計にとりかかった。そして、世界に先がけH型鋼を採用、風洞、耐火等数々の実験を行なった。公開実験は成功、活動の主体は設計部門を離れて江尻、松本らの率いる現場建設部門へ移った。鉄骨組立ては台風シーズン前までに完了しなければならない。タワークレーンを操縦するオペレーターの島村もトビ職の小森も誇りをもって、仕事に挑んだ。ある日、出稼作業員の星野がナットを何気なく投げ捨てた。しかし、それは爆発音とともにトラックに大穴をあげるほどの偉力をもっていた。江尻は、安全作業に徹底し、ビルは二十、三十と、階を重ねた。雪に悩まされ、落雷をさけて、島村らは頑張った。そして、上棟式。一四七Mと書かれたH型鋼が晴れやかな人々の顔に見送られて吊上げられた。三十六階の霞が関ビルが朝日に輝いたのは、昭和四十三年四月十八日のことだった。