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切り出しナイフとともに行方不明になった息子は、殺人事件の加害者なのか? それとも被害者としてすでに死亡しているのか? 真相が曖昧な状態が続くことで、胃が痛くなるような緊張感が伝わってくるが、それは原作と俳優の力だろう。ニュースバリューのある事件にハイエナのように群がる報道陣や、空気のコンセンサスが取れた途端に始まる嫌がらせなど、“世間”の描き方があまりにもステレオタイプで既視感の嵐。手堅くまとめてはいるが、映画としての新鮮味や輝きがない。
元カレとのセックスシーンでは、ノイズのような奇怪な劇伴が徐々に大きくなり、二人の身心のズレと、セックスという行為が他者から見るといかに滑稽であるかが浮き彫りになる。ある人物は、見知らぬ女の喘ぎ声を聞いて、自殺をするのがアホらしくなったと白状する。セックスを通して生と死を描く数多の映画に比べて、本作は主人公とセックスを美化しない視点が魅力。主人公に純粋な愛情をぶつける男を演じる奥野瑛太が、熱量派だと思っていたら、とんでもない技巧派になっていた。
「一九四〇年に生きる人物を、映画好きというキャラ設定を生かしてか、蒼井優は当時の映画女優の芝居へのアプローチを用いて演じる。現代の言語感覚では不自然な言い回しの台詞を、やや高音で小気味よい早口で放ち続けることで、あの時代の人物としてスクリーンに存在する。とりわけ「おみごとー!」と叫んで失神する芝居は、構図とも相まって間違いなくこの映画のピークとなった。蒼井の新たな代表作は、ミステリーとしても反戦映画としても格調高い娯楽作に仕上がっている。
アイヌの人々が現在向き合っているものを(おそらく丹念な取材で)拾い集め、アイヌの少年の成長物語として再構築。森や湖で、思春期とアイデンティティーというダブルのゆらぎに惑う少年を捉えた映像美に目をみはるものがある。民謡や舞踊、民芸品や祭事などを、物語の装飾ではなく必要なものとして扱っており、アイヌの文化や人々だけでなく、映画への敬意が滲む。檻に入れられた子熊の側から少年にカメラを向けたショットの意図的な違和感を、終盤で回収する手腕も巧み。
原作は読んでいた。映画になるだろうと思っていて、期待もしていた。監督も脚本家も押しも押されぬ名人。大人の対応をしているなと思った。コンプライアンス的にもハナマルだろう。同級生殺人事件に長男が関わっているらしいが、詳細はわからない。息子が被害者であっても殺人者であってほしくはないと望む父親と殺人者であっても生きていてほしいと望む母親。二人の望みがぶつかり火花を散らし、夫婦に決定的な亀裂が走る……ことはなかった。いい映画だとは思うんだが……。
あざみさんは漂流している。どこに流されていくかもわからず、時々岩や流木にぶつかるみたいにセックスをする。シナリオワークブック『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』を書いたシド・フィールドは、「主人公には目的がなければならない」と言う。目的があるから行動し、それを阻むものが出てきてドラマが生まれる。あざみさんの目的はなんだろう。それがよくわからず、観る人の心も漂流する。ノダくんとの話に集約していれば傑作になったかも、とふと思った。
「クロサワ」と聞いて、「明」ではなく「清」のことだと思った学生がいるのに驚いたのは十数年ほど前のこと。今ではそれが当たり前になりつつある。あの独特の黒沢ワールドも捨てがたいが、「黒沢色」を排しているようなここ最近の作品もいい。オーソドックスという言葉がよく似合う。これが脱黒沢ワールドの到達点などと言ったら、ご本人に叱られるかもしれない。最後まで一つも違和感もなく観られた。俳優陣がとてもいい。これも黒沢さんの演出あってのことだと思う。
アイヌの古来からの習俗や儀式がしっかり描かれていて、とても興味をそそられた。「イヨマンテ」と言えば、古関裕而が作曲した〈イヨマンテの夜〉を思い浮かべてしまうが、熊を殺してその魂を神へ送り出すアイヌの大切なこの儀式が、野蛮だといって一時禁止されたことを初めて知った。少年は亡父の友人が飼う子熊を飼育するように言われるが、それがやがてイヨマンテでの生贄になると思って、逃がそうとする。そこに葛藤・劇があるが、あまりしっくり来てはなかった。
本作の作劇の肝は、行方不明の息子が加害者なのか被害者なのか分からない宙づりの時間にある。そこに世間の悪意が入り込み、母親の心の隙を狙ってジャーナリストが介入、父母の間を分断する展開も生じる。凶器かもしれなかったナイフを父が発見し、そこから彼が息子の無罪を確信、その途端に事態は急激に変化を迎えるのだが、ナイフのありかに意外性もなく、この発見を遅らせていることに映画の肝があるとなると、一緒に発見されたメモで感動させるのも目眩ましに見えてくる。
あざみさんという名前にふさわしく、ザラザラした感じのヒロインの造形。年上の彼氏との間が、「二人でいるのに片思い」ですれ違い、鏡でしか視線が合わなかったり、逆に夢で彼の自殺を救ったら、実際に知らぬ間に留守電で救っていたり、すれ違っているような、いないような微妙な関係、これではもやもやしても仕様がない。しかしこの不透明感こそが生きているという感触であるように思われ、愚直に彼女を愛する男の登場によって事態を分かりやすくするのは若干惜しい気がする。
「スパイ」である夫は自分を裏表のない人間と言うが、掛け値なしにその通りで、それは妻も同様だ。夫婦共に真っ正直な人間=透明な存在であるからこそ生じるサスペンスという逆転。これまで不透明な存在を核に劇を紡いできた黒沢監督としては全く新しいアプローチで、これは脚本に新世代を起用したことによるものか。これは画面においても言え、リアルの不透明な翳りの薄い、作り物の匂いのする絵面になっている。作り物であることを引き受けた上で映画に何が可能か、その実験。
イヨマンテは観光客を排して、アイヌのアイデンティティを再確認するため自分たちのためだけに行われ、閉ざされている。固有性を維持するためには閉ざすという選択は、開かれることを礼賛するグローバリズムへの批判ともなりうる。観光地化に疑問を持ちつつ、イヨマンテにも小熊可愛さから踏み切れない主人公の少年という視点を設け、その成長物語とすることで緩和されているが、本来一層激しい社会葛藤劇(例えばクジラ・イルカ漁の是非を思えばそれが想像できる)もありえた。