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アラン・ドロン

  • Alain Delon
  • 出演/製作/脚本/監督
本名
出身地 パリ南郊のソー生まれ
生年月日 1935年11月8日
没年月日 2024年8月18日

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略歴

1935年11月8日フランス・パリ近郊ソーにて、映画館主の息子として生まれる。たが、いわゆる婚外子であり、両親は幼いうちに離別。9歳で母親の結婚相手の家に引き取られたものの新しい家族となじめず、寄宿学校を転々として17歳で海兵隊に入隊。第一次インドシナ戦争に従軍する。除隊後、世界の各地を放浪して56年にパリに戻る。57年に訪れたカンヌ国際映画祭でアメリカの大物プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックにスカウトされるが、この契約はまとまらず、イヴ・アレグレ監督のフランス映画「女が事件にからむ時」(56)でデビュー。日本では「お嬢さん、お手やわらかに!」(59)が公開されて若い女性の間で人気が沸騰する。1959年、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」(60)に主演。野心を達成するためには手段を選ばない青年像を見事に演じて、大スターへの第一歩を踏み出す。このクレマンと、「若者のすべて」(60)に彼を起用したルキノ・ヴィスコンティ監督、そして詩人ジャン・コクトーは若き日のアラン・ドロンに知性をもたらし、乗馬、絵画、武器のコレクションなどの趣味を与えた男たちだった。63年3月フランス映画祭出席のため来日。その後も64年6月、65年4月の2度にわたって来日し爆発的な人気にこたえている。64年にはハリウッドのMGMと契約。その前年のフランス映画「黒いチューリップ」(64)撮影中に知り合った写真家ナタリー・バルテルミーと恋に落ち、「恋ひとすじに」(58)で共演したロミー・シュナイダーとの長すぎた春を終わらせて、64年8月13日に結婚。9月にはナタリーとハネムーンをかねてアメリカへ渡り、10月1日に息子アントニーが生まれる。だが、ハリウッドとは肌が合わなかったのか、66年に帰国、フランス映画界に復帰する。ハリウッド行きは誤算だったが、帰国後の活躍は目ざましい。「冒険者たち」(67)で女性を挟んだ男同士の友情を生き生きと演じ、ジャン=ピエール・ベルヴィル監督の「サムライ」(67)では死のかげりを漂わせる禁欲的な美を見せ、フランス映画に返り咲く。この頃、68年10月1日、ボディ・ガード、ステファン・マルコヴィッチの殺人事件に際して重要参考人として取り調べを受け、俳優生命を失うほどの窮地に立たされるが危機を脱出。また、女優として活動しはじめたナタリーとの仲もうまくいかなくなり、69年2月14日に離婚。前後して「ジェフ」(69)の共演者ミレーユ・ダルクとの同棲生活に入る。困難がありながらも、69年に自らのプロダクション、アデル・プロダクションを設立して映画製作に進出したのを手始めに、73年にはヘリコプターによる輸送会社を設立、ボクシングのプロモートに手を伸ばすなど、実業界にも乗り出し、苦境を乗り越える。「真夜中のミラージュ」(84)でフランスのセザール賞主演男優賞を受賞。「危険なささやき」(81)では監督も務め、フランス映画界の地位を不動のものとした。彼がよく口にするコクトーの言葉“私は一つの仕事から次の事件へ休息する”忙しい毎日を過ごしていたが、2017年に俳優業を引退。長らくフランス映画界に多大な影響を与え、2024年8月18日永眠。

キネマ旬報の記事

2024年11月号

巻頭特集 映画の中で生きつづける、ふたりとの別れ:アラン・ドロンという永遠 リポート 母国フランスでの追悼

巻頭特集 映画の中で生きつづける、ふたりとの別れ:アラン・ドロンという永遠 エッセイ アラン・ドロン物語

巻頭特集 映画の中で生きつづける、ふたりとの別れ:アラン・ドロンという永遠 監督たちによるアラン・ドロン

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2016年4月下旬号

傑作は何度でも再来(リヴァイヴァル)する:ヴィスコンティと美しき男たち~アラン・ドロンとヘルムート・バーガー~ [再録]ルキノ・ヴィスコンティ論

1993年4月上旬春の特別号

グラビア《Talky talk》:アラン・ドロン

インタビュー THE FACE '93:アラン・ドロン

1990年1月下旬号

グラビア:アラン・ドロン/私刑警察

1983年12月上旬号

〈特別グラビア〉:「危険なささやき」アラン・ドロン 華麗なる変遷

1979年12月上旬号

「エアポート’80」特集:2 ハリウッドに進出するアラン・ドロン

1977年6月上旬号

フロントページ:

1976年12月下旬号

特集 「ブーメランのように」:1 ジョゼ・ジョヴァンニとアラン・ドロン

特集 「ブーメランのように」:2 中年-それは永遠の青春の追求であることを証明するアラン・ドロン

特集 「ブーメランのように」:3 我が友アラン・ドロンと映画「ブーメランのように」を語る-ジョゼ・ジョヴァンニ

1975年8月下旬号

シネマ・プラクティス:第20回 あのアラン・ドロンが英雄ゾロになった功罪 矢崎泰久+落合恵子

1975年7月下旬号

外国映画紹介:アラン・ドロンのゾロ

1975年6月下旬号

グラビア:「アラン・ドロンのゾロ」

今号の問題作:アラン・ドロンのゾロ

1975年1月下旬正月特別号

グラビア:アラン・ドロン「ボルサリーノ2」

ビアンコ・エ・ネーロ突然の欧州旅行:アラン・ドロンの野望と「ボルサリーノ2」

1975年1月上旬新年特別号

グラビア:「アラン・ドロンのゾロ」

1973年11月上旬号

グラビア:アラン・ドロンの「ビッグ・ガン」

1973年9月上旬号

アラン・ドロンと「高校教師」:

1973年7月下旬号

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1969年4月下旬号

特別グラビア:甦った男アラン・ドロン

1964年7月下旬号

特別グラビア アラン・ドロン滞日七日間始末記:八面六臂のサービス男

特別グラビア アラン・ドロン滞日七日間始末記:彼らが日本に求めたもの -来日スター アル・ジョルソンからドロンまで-