1935年11月8日フランス・パリ近郊ソーにて、映画館主の息子として生まれる。たが、いわゆる婚外子であり、両親は幼いうちに離別。9歳で母親の結婚相手の家に引き取られたものの新しい家族となじめず、寄宿学校を転々として17歳で海兵隊に入隊。第一次インドシナ戦争に従軍する。除隊後、世界の各地を放浪して56年にパリに戻る。57年に訪れたカンヌ国際映画祭でアメリカの大物プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックにスカウトされるが、この契約はまとまらず、イヴ・アレグレ監督のフランス映画「女が事件にからむ時」(56)でデビュー。日本では「お嬢さん、お手やわらかに!」(59)が公開されて若い女性の間で人気が沸騰する。1959年、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」(60)に主演。野心を達成するためには手段を選ばない青年像を見事に演じて、大スターへの第一歩を踏み出す。このクレマンと、「若者のすべて」(60)に彼を起用したルキノ・ヴィスコンティ監督、そして詩人ジャン・コクトーは若き日のアラン・ドロンに知性をもたらし、乗馬、絵画、武器のコレクションなどの趣味を与えた男たちだった。63年3月フランス映画祭出席のため来日。その後も64年6月、65年4月の2度にわたって来日し爆発的な人気にこたえている。64年にはハリウッドのMGMと契約。その前年のフランス映画「黒いチューリップ」(64)撮影中に知り合った写真家ナタリー・バルテルミーと恋に落ち、「恋ひとすじに」(58)で共演したロミー・シュナイダーとの長すぎた春を終わらせて、64年8月13日に結婚。9月にはナタリーとハネムーンをかねてアメリカへ渡り、10月1日に息子アントニーが生まれる。だが、ハリウッドとは肌が合わなかったのか、66年に帰国、フランス映画界に復帰する。ハリウッド行きは誤算だったが、帰国後の活躍は目ざましい。「冒険者たち」(67)で女性を挟んだ男同士の友情を生き生きと演じ、ジャン=ピエール・ベルヴィル監督の「サムライ」(67)では死のかげりを漂わせる禁欲的な美を見せ、フランス映画に返り咲く。この頃、68年10月1日、ボディ・ガード、ステファン・マルコヴィッチの殺人事件に際して重要参考人として取り調べを受け、俳優生命を失うほどの窮地に立たされるが危機を脱出。また、女優として活動しはじめたナタリーとの仲もうまくいかなくなり、69年2月14日に離婚。前後して「ジェフ」(69)の共演者ミレーユ・ダルクとの同棲生活に入る。困難がありながらも、69年に自らのプロダクション、アデル・プロダクションを設立して映画製作に進出したのを手始めに、73年にはヘリコプターによる輸送会社を設立、ボクシングのプロモートに手を伸ばすなど、実業界にも乗り出し、苦境を乗り越える。「真夜中のミラージュ」(84)でフランスのセザール賞主演男優賞を受賞。「危険なささやき」(81)では監督も務め、フランス映画界の地位を不動のものとした。彼がよく口にするコクトーの言葉“私は一つの仕事から次の事件へ休息する”忙しい毎日を過ごしていたが、2017年に俳優業を引退。長らくフランス映画界に多大な影響を与え、2024年8月18日永眠。