月島雫は、とにかく明るい読書好きの少女である。雫は学校の図書館、市立図書館と片っ端から物語を読みまくっていた。ある日、雫は貸出カードに“天沢聖司”という名前を発見し、それ以来、良く注意してみると、雫の読む本には必ず先にその名前があることに気付く。雫の心の中でその名前は、顔も年齢も知らぬまま次第に膨れ上がり、育っていった。この夏休みは雫にとって中学最後の夏休みであった。両親は雫にあまりに理解があり過ぎて、何も強制しようとはしない。雫は恋や進路を巡る友人たちの騒ぎにも付き合いながら、やがてひとりの少年と出会う。少年は中学を卒業したらイタリアへ渡って、ヴァイオリン職人の修行をしようと決意していた。そのための準備を確かな足取りで進めている彼が、あの貸出カードの“天沢聖司”だったのだ。雫は聖司に心ひかれながら、進路も将来も自分の才能にも、全てが曖昧な自分へのコンプレックスと焦りに引き裂かれる思いがした。二人は幼くたどたどしいながらも、あくまで真摯に距離を近づけていく。雫は、二人は立ち止まり見つめ合うのではなく、並んで立って同じ遠い地平線を見つめるのだと決め、その時にそれまで抱いていた曖昧な不安から解放されたような気がしていた。出発を数日後に控えた聖司は早朝の丘に雫を誘い、朝焼けの中で「一人前の職人になったら、結婚してくれ」と告白する。雫はゆっくりと頷いた。聖司は晴れやかな顔で、夢を果たすために旅立って行くのだった。春、高校の入学式に向かう新入生の中に月島雫の姿もあった。雫は相変わらず溌剌と元気だったが、以前とひとつだけ違うのは、自分を賢く見つめる眼差しを胸にしっかりと抱いていることだった。