【“俺”印の旗を掲げ、個人映画の荒野を疾る奇才】愛知県豊川市の生まれ。園子温は本名。豊橋東高校在学中より詩作を始め、専門誌では“ジーパンをはいた朔太郎”と称された。次に映画表現も志し、1984年の法政大学入学後は、映画制作グループに属して8ミリ映画を発表。映像日記の手法で自我のイメージを突き付けた「俺は園子温だ!!」がPFF86に、地方の若者の悶々とした叫びを異なった表現の二部構成で描く「男の花道」がPFF87に、連続入選を果たす。さらにPFFスカラシップの権利も得て、同システムによる88年製作の16ミリ作品「自転車吐息」が初の一般劇場公開作となった。本作はベルリン映画祭正式招待をはじめ多数の海外映画祭で上映され、以後の実験的な作風を持つ独立製作作品の多くも海外を廻ることになる。初老の殺し屋が死ぬための部屋を不動産屋の女性と探す「部屋/THE ROOM」(93)、秒単位で22歳の誕生日を待つ日記映画「桂子ですけど」(97)、アーティスト3人の記録と純愛ドラマが交錯する映像詩「うつしみ」(00)と自主映画風味を残した意欲作は続き、2002年には、集団自殺事件とカルト集団を扱ったOV枠の「自殺サークル」を発表。これが単館ヒット作となり、続編「紀子の食卓」(05)や「気球クラブ、その後」(06)など商業傾向の強まった作品を連打する。09年には父子ドラマに正面から挑んだ「ちゃんと伝える」で新たな観客層を開拓する一方、大長編「愛のむきだし」がキネマ旬報ベスト・テン4位に入選するなど、いよいよ園の名が一般に広まるに至った。2010年、「冷たい熱帯魚」(10)が公開。【個人映画から社会派娯楽作へ】自主映画作家を支援するPFFスカラシップ制度の初期大成者であり、その後もインディーズ作家の姿勢を守り続ける。一貫して自我を投影する映画を作り、「自転車吐息」までの自主映画時代は“俺”自身の姿をフィルムに刻んで、走り出そうにも目的地が見出せない自我の苛立ちを鮮烈に描出した。実験色の強い劇場用初期作品も、園自身の観念を他者に託したものとして見られる。この個人映画的な傾向は、女子高生が恋愛に向けて疾走する「うつしみ」と、危険地帯を求めて学生がニューヨークを彷徨する「HAZARD」(06・製作は02年)で極められた。転回点となるのは「自殺サークル」「紀子の食卓」の二部作。ここでは社会への視線や家族像についての観念がスリラーふうの物語に織り込まれ、以後、自我の追求姿勢は商業作品の表層に潜り込むかたちとなった。「夢の中へ」「奇妙なサーカス」(05)では現実と虚構の交錯から自我の不安を描き、「気球クラブ、その後」「ちゃんと伝える」は個人の想いを青春ドラマに滑り込ませる。世はすでに個人映画的な等身大ドラマにあふれる時代。園子温は反語的に「愛のむきだし」を集大成として提示し、なお個人映画を劇映画に転化する地平を疾走し続ける。