【「スター・ウォーズ」でアメリカ映画の歴史を塗り替える】アメリカ、カリフォルニア州モデスト出身。少年時代は車に熱中し、自動車レーサーを志していたが、高校卒業直前に交通事故で重傷を負い、レーサーへの道を断念。地元のジュニア・カレッジで社会学を学んでいた頃、「バージニア・ウルフなんかこわくない」「夜の大捜査線」の撮影監督ハスケル・ウェクスラーと出会い、映画の勉強を勧められる。南カリフォルニア大学(USC)へ進学して短編映画を作り始め、USCの助手時代の1本「THX-1138 4EB」(67)は学生映画祭などで多数の賞を受賞する。大学卒業後、ワーナー・ブラザースでフランシス・フォード・コッポラの「フィニアンの虹」(68)、「雨の中の女」(69)の現場に参加し、コッポラと意気投合。作り手主導の映画製作会社アメリカン・ゾエトロープ設立に協力し、コッポラの製作総指揮で学生時代の「THX-1138」を、劇場映画として再映画化。監督デビューを飾るも、ワーナー幹部からは酷評され興行的にも失敗。ゾエトロープ社を倒産の危機に追い込む。しかし2年後の73年、やはりコッポラのプロデュースで監督した「アメリカン・グラフィティ」が大ヒット。人気監督の仲間入りをし、77年、「スター・ウォーズ」を発表。配給会社20世紀フォックスの予想を遥かに超える歴史的な興行成績を上げ、以後ルーカスの名は「スター・ウォーズ」と共に語られることとなる。【80年代以降はプロデュース中心に】スター・ウォーズ」製作中に受けた肉体的・精神的疲労からか、80年代以降はプロデュース業が中心となり、自身の会社ルーカスフィルムで「スター・ウォーズ」の続篇をはじめ親友スティーヴン・スピルバーグの「インディ・ジョーンズ」シリーズや、「ラビリンス/ 魔王の迷宮」、「ウィロー」など特殊効果を駆使した作品群を製作。特殊効果専門の製作会社I.L.M.も立ち上げ、CG映像の発展に大きく貢献する。デイヴィッド・フィンチャーやジョン・ラセター、ジョー・ジョンストンなど、I.L.M.でキャリアを積んだ後にデビューした監督も多く、90年代以降の若手作家育成の場としても、I.L.M.は大きな役割を果たした。また、コッポラと共に黒澤明の「影武者」国際版プロデューサーとなって支援し、ポール・シュレイダー監督の「ミシマ」(85)をプロデュースするなど、日本の映画と文化に対する関心の深さでも知られている。99年、「スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」で、ルーカスは22年ぶりに監督業に復帰。同シリーズの版権ビジネスやルーカスフィルムの経営、プロデュース業などで築いた膨大な資産を注ぎ込んだ完全なる自主映画であり、エピソード2、3も連続して発表。同シリーズを完結に導いた。