昭和二十年三月、アメリカ軍の上陸直前の沖縄は、海上からの艦撃と、空からの爆撃と機銃掃射をあびて、死の様相をそなえていた。敗戦への最後のあがきとして、軍は沖縄師範女子部と沖縄県立第一高女の女学生たちまでも、勤労奉仕と称して最前線へかり立てたのだった。胸に白百合と桜の徽章をつけたうら若き乙女たちは、明日の生命もあやぶまれるときに、父母姉妹の肉親たちと別れ、南風原の丘へと行進して行った。そこでは日本軍が、血と泥とにまみれて最後の防戦に奮闘していた。乙女たちは、弾丸運びに、水汲みに、死体運びに、負傷者の手当てに、日夜、かぼそい神経を鞭打って立ち働いた。彼女たちの晴れの卒業式も壕の内部で行われたが、いよいよ激しい敵軍の攻撃に、軍隊はいち早く後退したが、彼女たちには何の保護も与えられず、敵軍の弾丸や機銃にさらされながら大勢の犠牲者を出してからくも後退し軍に追いつくのだった。しかし、狭い沖縄の島は、何処へ行っても今や安全な地点はなく、島から脱出するにしては、最早時期がおくれてしまっていた。敵軍に包囲された島の仲で、難民は右往左往するばかりで、逆上した軍人は、降伏をすすめる敵軍の放送に思わず駆け出す娘を、容赦もなく射ち殺した。かくて、ひめゆり舞台と呼ばれたうら若い乙女の一隊とその教師たちは、次々無惨な死をとげてしまった。