剣をとっては天下無敵の“音なしの構え”の机竜之助だがの心の底には絶えず自分をさえ信じ得ぬ虚無の嵐が吹きまくっていた。その風の渦まくところに魔剣がひらめく。大菩薩峠で、何の理由もなく巡礼の老爺を斬捨てたのも彼にとっては一陣の突風のなせる業でしかなかった。だが、過る日の奉納試合に宇津木文之丞を討ち果した時だけは、その剣に女の妄執がこもっていた。女の名はお浜、文之丞の許婚である。--それから四年、お浜を連れて江戸に出た竜之助には、一子郁太郎が生れていたが、剣の深淵に混迷する彼は血に飢え、魔心に狂い、地獄の業火にのたうちまわっていた。その頃、文之丞の弟兵馬は兄の仇を討つべく、島田虎之助の道場で武芸を磨いていた。江戸広しといえども竜之助の“音無しの構え”を破り得るのは島田ただ一人。兵馬はふとした機会にお松という娘と知り合いお互いに愛情を抱くようになったが、彼女こそ、あの大菩薩峠で竜之助に殺された巡礼の孫娘であった。一方、竜之助は魔剣に魅せられお浜をその刃にかけてしまった。そしてただ斬ることのみで新徴組に加担し京に上った竜之助の脳裡に去来するのは、これまで殺した数々の人の幻--ついに狂気となってさまよい出た彼の辿った道筋には無惨に斬られた死体が点々と転がっていた。やっと正気に戻ったところは大和路。そこで彼はお浜と生写しの女、お豊に出会った。竜之助の空虚な心に火がともりかけたが、お豊は彼と江戸に向う日、彼女に横恋慕する男、金蔵によってかどわかされた。いまは、善も悪もすべて虚空の彼方に追いやった竜之助は、蜂起に失敗した天誅組の中に身をおいた。そして、残党狩りの追手の火薬に眼を焼かれ盲いになった彼だったが、彼を包囲した追手の群れを次々と倒す“音なしの構え”はいよいよ冴えていった--。