播州赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助と上杉藩江戸家老・色部又四郎の戦いは、元禄14年3月14日江戸城柳の間にて赤穂城主浅野内匠頭が勅使饗応役高家・吉良上野介に対し刃傷に及んだ事件から始まった。内匠頭は即刻切腹、赤穂藩は取り潰し、吉良はお咎めなしという、当時の喧嘩両成敗を無視した一方的な裁断は、家名と権勢を守ろうとする色部と時の宰相柳沢吉保の策略だった。赤穂藩は騒然となり、篭城か開城かで揺れるが、大石は既に吉良を討ちその家を潰し、上杉、柳沢の面目を叩き潰す志を抱き、早速反撃を開始した。事件発生後直ぐに塩相場を操作し膨大な討ち入り資金を作った大石は、その資金をばらまき江戸市中に吉良賄賂説を流布させ、庶民の反吉良感情を煽り、また赤穂浪士すわ討ち入りの噂を流して吉良邸付近の諸大名を震え上がらせ、討ち入りに困難な江戸城御府内にある吉良邸を外に移転させるなどの情報戦を駆使した。思わぬ大石の攻勢にたじろいだ色部も、吉良を隠居させる一方、仕官斡旋を武器に赤穂浪人の切り崩しを図り、討ち入りに備えて迷路や落とし穴などを完備した要塞と呼ぶべき吉良屋敷を建てさせるなど、反撃を開始する。京都・鞍馬で入念な準備に忙殺される大石はその傍ら、一文字屋の娘・かるとの恋を知る。かるはいつしか大石の子を身籠もった。追い詰められた上杉家は最後の策として吉良を米沢に隠居させようとする。その惜別の会が開かれた12月14日、運命の日。雪も降り止み誰もが寝静まった子の刻、大石以下47名が集まり、要塞化した吉良邸にいよいよ突入した。迷路を越え、上杉勢百数十名との壮絶なる死闘の末、遂に大石は吉良を捕らえる。追い詰められた吉良は大石に、浅野の刃傷の本当の理由を知りたくはないか、と助命を請う。だが大石は、知りとうない、と答え、吉良を討つ。吉良の死に重なるように、かるの腹から新しい生命が生まれた。