本作を観て、ツラツラ考える・・・。
例えば、結合双生児トーリャとコーリャ。この時代で結合双生児が生き残る手段は?生きるために必要な臓器を共有していなければ2人の体を切離すことはできるが、20世紀初頭の医学ではそれは可能なのか?トーリャとコーリャを養子として迎えたのは医師の家庭。イジワルな見方をすれば、医学的興味から2人を養子として迎えたのかもしれないが、もしかしたら将来的に切り離しを考えていたのかもしれない。それなのに、2人は「天使の歌声を持つ双子」として見世物にされるとは・・・。確かにトーリャとコーリャの歌は素晴らしい。だが、2人が結合双生児であったからこその人気なのだ。やはり結合双生児は“フリークス”以上にはなれないのか・・・?
例えば、深窓の令嬢として育ったヒロイン、リーザ。メイドが隠し持っていたポルノ写真(女性がむき出しのお尻を箒で打たれているもの)を見つけてしまってから、自分がそのポルノ写真の被写体にされてしまう羽目になる。絶対的な力によって、リーザ、トーリャ・コーリャやその家族たちを餌食にし、2つの裕福な家庭を崩壊に追い込むヨハンとその手下ヴィクトル。彼らこそ“フリークス”ではないのか(ヴィクトルの不気味な笑顔こそ?)。彼女たちは何故ヨハンの言いなりになってしまったのか?もちろん撮られた写真をネタに脅されているわけだが、自力で逃げ出そうと思えば逃げられたはずだ。その答えは、ヨハンが逮捕され、自由の身となってからにある。この時代の女子供が自力で生活していくことは難しい。家族を亡くしたお嬢様育ちのリーザには頼る当てはない。あの鞭打たれる快感を求めて、彼女が行きつくのは街の女・・・。ヨハンの元での彼女の生活は、辱めでしかないとはいえ、住む家があり、食事が与えられ、生活面では不自由がない。世間の風にさらされて生き抜くよりも、生温い虜を選ぶのは致し方ない。彼女たちの置かれた立場は、刑務所から出所してすぐに再犯で捕まる受刑者か、新興宗教の信者に似ている。非社会的な組織(?)の中で守られている方が、逆境に耐えて社会に出る辛さよりずっと簡単で楽なのだ。
ではトーリャとコーリャの場合はどうか。「天使の歌声を持つ双子」としてヨーロッパ諸国を巡業する2人は、大きなコンサートホールでショーを開けるまでの人気者となるが、ヨハンの元でアルコール中毒になってしまったトーリャの急逝によって、残されたコーリャの未来は暗い。トーリャを欠いたコーリャには「見世物」としての価値はない。そうなると当然巡業主からは追い出され、仕事は無く、路頭に迷うしかないのだ。ペシミストの私なぞはもっとおぞましいことを想像してしまう。切り離されない結合双生児は、片割れの死体をひきずって生きて行けるのか?自分の隣で腐って行くのは、もしかしたら自分自身ではないのか?そんな妄想に取りつかれ、やがては精神も崩壊し、のたれ死に、今度は本当に自分自身が腐って行く・・・。
ならばヨハンはその後どうなったのか。彼もまた、自分の築いた王国の崩壊に伴い、行き場を無くして途方に暮れる者の1人。彼はかつて自分の手下として倒錯写真を撮らせていたカメラマンが、自分のところから盗んだ機材で、かつて自分が撮らせていたポルノ映画(女性がむき出しのお尻を箒で打たれているだけのもの)を撮り、売れっ子映画監督となっていることを知る。密かに闇で売買していたポルノが、お金を取って公に堂々と公開されているのだ。彼が映画を観ながら流す涙の意味は何だろう。虚無?後悔?悔恨?それとも自分にとっての良き時代への思慕だろか・・・。映画館を出て彼が向かうのは凍てつく大河。流氷の1つに乗って流れて行く彼の姿は、サイレント期の巨匠D・W・グリフィス監督が『東への道』で描いたクライマックスの氷河流れとは真逆だ。『東への道』で氷河に乗って流されるヒロイン(サイレント期の大女優リリアン・ギッシュ)は、氷河の先に自由と未来があったが、ヨハンの氷河の先には何も無い(絶望さえも)・・・。
本作の全ての登場人物の結末は悲劇だ。ヨハンの元を逃れ、有名映画監督になった青年だけが成功を手にしたかに思われるが、私には彼の明るい未来は見えない。リーザに恋し、リーザを助けたいと思いながら、自分1人が逃げた彼の罪は大きい。また、彼がヨハンから盗んだのは撮影機材だけではなく、大衆の欲望を喚起させるテクニック。すなわち女性のお尻を鞭打つという倒錯的なエロティシズム。ヨハンが求めたエロスは、女性の裸体そのものではなく、白いお尻を打つという行為だ。それも自分が直接手を下すのではなく、年配のメイドが若い女性を打つものだ。ここにヨハンの母親あるいは乳母に対する屈折した愛がある。恐ろしいのはそれに共感する男性が多いということ。映画館が連日満員になり、青年監督が売れっ子になることの、本当の怖さを見失ってはいけない。もしもヨハンがこの映画と撮っていたとしたら、次々に倒錯的な作品を発表できたろうが、二番煎じの青年は大衆の欲望からすぐに置いて行かれ、忘れ去られる。青年に未来はないのだ。
本作における「フリークス」とは何か?もちろん映画史上最大の衝撃作であるトッド・ブラウニング監督の『怪物団<フリークス>』が思い浮かぶ。そこで描かれるのは、見た目は異様だが心優しいフリークスと、美しい見た目とは裏腹の醜い人間の姿だった。本作もそれと同じことが言いたいのか?いやいや、バラバノフ監督の描く世界はそんな単純なものではない。サイレント映画にオマージュを捧げたかのようなノスタルジックなセピアカラーで描かれる退廃的で耽美な映像美(見た目の美しさ)の中で浮き彫りになる、「人間」の欲望。その「人間」とは観ている我々も含めたパブリックな存在。大衆は醜い物、汚い物を排除し、心の底にある欲望をひた隠して生きている。フリークスとは「人間」である大衆そのものを指すのだ。もしかしたら欲望に忠実だったヨハンが、一番まともなのかもしれない・・・。