高橋竹山。本名は定蔵で明治四十三年六月十七日生まれ。母トヨ、父定吉。定蔵は三歳の時に、麻疹をこじらせ、半失明。この年は東北地方が大兇作で、母の必死の看病もかなわなかった。定蔵は、他の子供たちと同じ様に勉強ができないため、小学校も途中で退学。十五歳になった時、行く末を心配した母により、隣村のボサマ戸田重太郎の弟子として住み込む。彼らは三味線と唄で、青森、秋田、北海道などを旅して回った。定蔵は十七歳の時に独立。立ち寄った青森の十日町には、社会の底辺に生きる芸人や、貧しさの中にも明るく生きる人々がいた。定蔵はそこで、多くの友人を得た。定蔵は、船小屋で寝たり、山の中の小屋で寝たりしたが、三味線があるから独りでも寂しくはなかった。そして、彼はひとりの時はかならず三味線の練習をするのであった。こうして定蔵の三味線は、貧しさとたたかい、生きつづけるなかで、しだいにきたえられていった。母はそんな彼の姿を見て、ひそかに涙をながした。そのうち八戸の盲唖学校へ入学。そして戦後の二十五年、成田雲竹の伴奏者となって、竹山の号をもらった。時に竹山四十一歳であった。