【スキャンダルを乗り越えアカデミー賞監督賞を受賞】フランス、パリ生まれ。父はユダヤ教徒のポーランド人、母はロシア生まれのポーランド人でポランスキーが3歳のとき一家でポーランドのクラクフへ移る。1941年に両親が強制収容所に入れられ(母は死亡。父とは戦後再会する)、自身も収容所に入れられるが、脱出し、第二次大戦終了まで隠れ家を求めて父方の親戚を転々とするなど、ユダヤ人狩りの恐怖を体験した。戦後すぐに映画に興味を持つようになり、工業学校へ入る傍らラジオの子供番組にも出演。14歳で舞台に立ち俳優生活を6年続けた。54年にウージの国立映画学校に入学、アンジェイ・ムンクの指導を受けながら、在学中に10本の映画に出演し、6本の短編を監督。その中の1本、「タンスと二人の男」(58)がブリュッセル実験映画祭など5つのコンクールで賞を受けている。卒業後、2年間パリに滞在し、短編「太った男とやせた男」(61) を監督(出演も)。帰国して62年、「水の中のナイフ」で長編映画デビューを果たした。国内では黙殺されたがヴェネチア国際映画祭で国際批評家連盟賞受賞、米アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされるなど、アンジェイ・ワイダらと共にポーランド派の旗手として注目を浴びる。その評判に惹かれるように英語圏での映画製作を志し、イギリスに渡る。製作者ジーン・グトウスキーと組み、「反撥」(65)、「袋小路」(66)、「吸血鬼」(67)をロンドンで撮影する一方で、アメリカに居を移す。吸血鬼映画のパロディとしても人気を得た「吸血鬼」に出演した女優シャロン・テートと68年、自身は2度目となる結婚を果たす。だが、「ローズマリーの赤ちゃん」(68)が好評を得るなか、映画を連想させる殺人事件が起きた。ポランスキーがロンドン滞在中の69年8月9日、ハリウッドのベル・エアの自宅で、チャールズ・マンソン率いるカルト教団にテートを惨殺されたのだ(シャロン・テート殺人事件)。【「戦場のピアニスト」で復活】ポランスキーにまつわる事件はさらに続く。失意の中でジャック・ニコルソンの後押しを受けて撮った「チャイナタウン」(74)が成功したにもかかわらず、そのニコルソンの邸宅で、ポランスキーは13歳のモデルの少女をレイプしたとして逮捕され、有罪の判決を受けた。映画撮影を理由に出国を許可されると、収監を避けるためそのままヨーロッパに留まり、以後アメリカへ一度も入国していない。78年にはフランスの市民権を取り、89年には女優のエマニュエル・セニエと3度目の結婚をしている。その後もおよそ3年に1作のペースで監督作を手がけ、セザール賞作品賞ほかに輝く「テス」(79)など一部では評価を受けるものの全盛期は過ぎたと見られていた。だが、2002年、ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、シュピルマンの体験記を元にした「戦場のピアニスト」を発表、自身の少年時代の逃亡生活を重ね合わせた同作でカンヌ国際映画祭のパルム・ドールをはじめ、米アカデミー賞の作品賞、脚本賞、主演男優賞(エイドリアン・ブロディ)に輝き、見事な復活を印象づけた。